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名前 |
高倉宮冑之社の碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
高倉宮というのは以仁王のこと。後白河天皇の第二皇子の以仁王は、治承4年5月(1180年)の宇治川の戦いで平家に敗れました。そして以仁王は、奈良の興福寺の僧兵と合流するため南下したのですが、この高倉宮冑之杜の石碑のあたりで兜を脱いで休んだそうです。ちなみに以仁王はこの先、今の木津川市北部にある高倉神社のあたりで平氏に追いつかれ討たれました。すでに興福寺の僧兵達は木津を出発していましたから、高倉宮はこの場所で休憩さえしなければ合流して反撃に移れたことでしょう。在来馬の平均時速なら、約10分早く出発していれば高倉宮と興福寺僧兵は棚倉あたりで合流できていたはずですから。油断大敵、歴史の「IF」の一つです。