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名前 |
如来寺と普春庵由緒碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
5.0 |
如来寺さん境内に由緒碑が建立されていて、石碑。碑周り等とても綺麗に維持・管理されています。碑文を引用し御紹介します。~歴史こばなしの道【如来寺と普春庵由緒碑】如来寺は菰野河原町にあって西山禅林寺派の浄土宗のお寺です。山門の西東は白壁の土塀が続き、前の道は旧湯の山街道で、むかし桑名から菰野へ来遊した旅人は庄部のお旅所前の辻から川原町筋を通り、このお寺の前から大羽根を抜けて湯の山へと上ったものです。また、寺の西側から北へ出て三滝川原を渡り潤田へ通ずる「如来寺越渡し」という徒渉(かちわた)りの小道もありました。この如来寺は延宝三年(一六七五)菰野藩の二百石取の郡奉行寺西小左衛門政光が開基となって、菰野城の西北に当たる「乾(いぬい)」の方角に寅を興したといいます。この寺西小左衛門は、三代目の藩主雄豊(かつとよ)の令嬢おしゅん姫を預かり養育していました。この姫は生まれつき病弱であったので、小左衛門は手厚く大切に守り育てていましたが、その甲斐もなく延宝四年(一六七六)十一月十二日に亡くなりました。可愛い愛娘(まなむすめ)を失った雄豊は悲しみ、その菩提をとむらうために小左衛門に命じて如来寺を興させました。はじめ、お城の西の「門内(かどうち)」にあった小さな寺を移して如来寺とし、この寺のあったところに池を堀り、その水を引いてお城の飲料水に当てていたようであります。その後、元禄二年(一六八九)にこの寺の本堂を建立して雄豊は自ら筆を取り「如来寺」の寺号額を記し本堂の正面に掲げました。そして元禄十二年(一六九九)家臣の近藤又右衛門、梅戸権右衛門に命じて、新田二反三畝を寺領に寄進し、この寺の維持に当てています。なお菰野領の潤田村にある安楽寺は、如来寺の末寺でありました。はじめは、この寺の裏に小さい堂を建て「普春庵(ふしゅんあん)」と称しておしゅん姫の霊を祀(まつ)つていたようですが後に如来寺に移し、この跡に川原町神明宮を勧請して、この寺の鎮守とし、また川原町筋の発展のために市神として祀っていたようです。この宮は一時、如来寺の預かりとなっていましたが、宝永七年(一七一〇)ごろに庄部の市場が藩によって整備されると、川原町の市神は、庄部の方へ移っていきました。このおしゅん姫のお墓は、境内にある観音堂の南、つつじの刈込みの美しい庭の一角に一メ-トル四方ほどの石積みをして、その上に古い五輪の石塔がありますが、これが「雪相(せっそう)大童女」という、おしゅん姫のお墓といわれています。お墓の五輪石も小さく、お位牌(いはい)も童女と記されていますので、二、三歳ほどのいとけない可愛い盛りの姫であったと思われます。このお寺の十世俊竜和尚(おしょう)の許へ菰野城下の小壮気鋭の青年が集い寄り、和尚の薫陶(くんとう)を受けて後に江戸の昌平校へ入学した平井周啓をはじめ、多くの秀才が出ています。菰野町観光協会と、なっています。