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名前 |
関取米記念碑 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
国道477号「菰野駅口」交差点南に位置。石碑、碑周り等綺麗に維持・管理されています。※関取米について資料を引用しご紹介します。【関取米(せきとりまい)】菰野藩中菰野村(現・三重県菰野町)に生まれた篤農家の佐々木惣吉氏(1800~1881)が、江戸期末の嘉永元年(1848)に「千本」という品種のなかに優れた穂を見つけて栽培したところ、品質が良く収穫が多く、しかも風が吹いても倒伏しにくかったことから「関取」と命名したとされている。佐々木惣吉氏は相撲好きであったこともあり、「倒れにくい」に掛けて当時の大関「雲龍」の名を付けたが、雲龍関の戦績が芳しくなくなると「関取」に改名したとつたえられている。食味がよく多収で耐肥性もある「関取」は明治20~30年代を最盛期として、関東~中部~関西地方まで普及していった。押寿司が主流の関西では大粒品種が寿司米として好まれていたが、「関取」は小粒で米飯は粘りがすくないことから、江戸前(握り)寿司用の米として、東京の米市場では高値で取引されていた。しかし大正10年頃から関東地方に東北産の「亀の尾」が流入し始めると、消費者の好みも小粒から中粒と変化し、小粒品種の「関取」は処女にシェアを奪われていく。やがて関東地方の栽培の主力は「関取」よりもさらに多収の「愛国」にその座を譲ることとなった。また膝元の中部地方でも、中粒の「竹成」や「神力」が普及し始めたことで、昭和15年頃の作付けは三重県と滋賀県の山間部に僅かとなり、寿司米としての評価が高かった関東地方でですら2万ヘクタ-ル程度に減少していった。なお、元品種の「千本」は元禄2年(1689)に編纂された農業などの技術書(地方書)の「地方竹馬集にも「毛なし升目吉」との記述が残る古い品種であった「千本」の中晩生、短稈で倒伏しにくく、小粒ではあるが多収という特性は、「関取」は異名も多く、晩生品種のため晩秋でも青々していることから「霜不知」と呼ばれたり、「晩遠州」「大塚千本」「茶坊主」とも呼ばれたりした。