周辺のオススメ
スポンサードリンク
スポンサードリンク
この地に大正初期まで、薬師霊場として朝野の尊崇を集めた古刹があった。黒川道祐の『雍州府志』には、”始め上賀茂の辺、蓼倉郷にあり””一年、洪水漲り出て堂宇及び仏龕流れて延勝寺の辺に留止す””花園房能僧正、別当たり(中略)薩戒記に見えたり”とある。また、明治10年代に編纂された『京都府寺院明細帳』にも当寺の由緒として”本尊ハ伝教大師ノ作ニシテ日本七体ノ内第三之霊仏ナリ””往古ハ賀茂蓼倉ノ里ニアリ其ノ後六百二十年経テ人王百二代称光帝御病悩の時 当山ニ勅願在テ感応忽チ験然タリ””応仁ノ乱ニ至テ殿堂一時焼失ス 寛文十一年九条殿北政所廉貞院殿再建シテ以東山本山一心院末属ス” とあり、往古より七仏薬師霊場の一つに数えられ、霊験あらたかとされてきたことが窺える。寛文年間の再建以降は、浄土宗捨世派の本山である一心院の末寺だったようだが、前記『寺院明細帳』には本堂の外に「行者堂」「瑜伽堂」「地蔵堂」が存したと記されており、修験道との関連も見て取れる。なお現地には標柱や碑文、案内板の類は設置されていないが『拾遺都名所図会』の”満願寺ノ北ニ隣ル”との表記や、竹村俊則の『新撰京都名所圖會』にある満願寺の画像を基に場所の比定を行ったものである。