東海道沿い、七里の渡し東公園内に説明板が建立されて...
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| 名前 |
治水史Ⅰ江戸時代中期「宝暦治水」・治水史Ⅱ明治時代「明治改修」・治水史Ⅲ現代「伊勢湾台風以降の治水整備」説明板 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
0031 |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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東海道沿い、七里の渡し東公園内に説明板が建立されています。治水史Ⅰ、Ⅱ、Ⅲとありますが、治水史Ⅲ-現在伊勢湾台風以降の治水整備についての説明文を引用しご紹介します。説明板、周囲ととても綺麗に維持・管理されています。【治水史Ⅲ-現在 伊勢湾台風以降の治水整備】明治改修以降も、洪水は数々の被害をもたらしました。その中でとくに忘れられないのが昭和34年9月26日に上陸し、台風災害として最大の被害をもたらした伊勢湾台風です。被害のほとんどが東海地方に集中し、愛知・岐阜・三重3県下で死者・行方不明者4,637人、負傷者約6万5千人という大惨事になったのです。被害の大きな原因は、高潮の発生でした。当時の小さな堤防は次々と壊れ、村や町は泥の海にのみこまれてしまったのです。水との闘いは台風が過ぎ去った後も長く続きました。なぜなら、木曽三川下流部では、海面より低い土地が多かったため、なかなか水がひかず一般国道1号、当時の国鉄関西本線、近鉄名古屋線などの各交通機関もいたるところで分断されてマヒ状態になりました。衛生状態も悪くなり、赤痢患者も多数発生しました。伊勢湾台風の教訓はその後、地下水利用制限などの地盤沈下対策や、高潮対策事業にいかされ、堤防の高さや構造などが見直されました。以下伊勢湾台風による一般被害省略。※添付写真をご覧ください。