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| 名前 |
別所城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
夏場は草が茂り分かりにくかったけど、草が枯れたら見つけられた。土塁や空堀などの立て札と、城跡を示す石碑がある。足元が悪くて、散策には向かない。中学校の校庭から入る方が入りやすい。別所城を構えたのは伊藤左京亮貞久。貞久は永正の頃(1504-21)に伊豆国下田から振草七郷の地頭として赴任。配下に岡本の伊藤兵庫介、下田の伊藤八左衛門、足込の川合源三郎(川合砦)。貞久は長篠城の菅沼元貞(元直)に属した。1542年、貞久の子の伊藤貞次が、本郷諏訪社に大鳥居を寄進。1577年には、本郷諏訪宝殿と本郷岡本の阿弥陀堂を改築。1559年、伊藤貞久が死去。伊藤貞次が家督を継ぐ。1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、松平元康に従う。1569年1月、伊藤貞次は、長篠城の菅沼定景から援軍を得て、鶴ヶ城(佐久間町)の鶴ヶ山大磯之丞(鶴山大磯之丞)を切腹に追い込む。続いて掛川城攻めに加わる。1571年、秋山虎繁に敗れた伊藤貞次は武田家に降伏。武田信玄の死後、1575年に「長篠の戦い」が勃発。伊藤貞次は、武田勝頼を頼って甲斐に逃れ、設楽城、別所城も廃城となったとされる。1573年頃に、東栄町を離れ、間黒の庄(豊根村)に隠棲したという説もある。