勝海舟夫妻の墓で歴史に浸る。
勝海舟夫妻の墓の特徴
勝海舟夫妻のお墓は、静かな洗足池の畔に nestled しています。
幕末の偉人、勝海舟と妻の墓が揃い、歴史の重みを感じます。
スロープのあるアクセス良好な墓所は、手入れが行き届いています。
東急池上線「洗足池駅」から徒歩10分ほどです。洗足駅から右側からぐるっとまわっていくと公園の途中にあります。中原街道を渡って交番を左折すると、案内多数なので迷うことはないでしょう。尚、その途中に、勝海舟別邸)洗足軒)跡、大田区立勝海舟記念館があります。墓は一番奥ですね。公園の中にあるので、多分年中無休で見られるのではないかと思います。(料金無料)勝海舟邸跡は赤坂にありますが、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中、洗足池畔に憩い、風景にうたれ、その縁でここに別荘を構えました。後に海舟の遺言で、屋敷裏の台地に葬られたと伝えられます。妻である民子の墓は、後に青山墓地から移設されとのことでした。(大田区勝海舟夫妻の墓のHPより引用)
勝海舟は、咸臨丸による渡米や江戸の無血開城などの幕末に活躍したイメージがあったので、薩摩か土佐か長州藩出身なのかと思っていたら、両国生まれの江戸っ子だったんですね。勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中、洗足池畔に憩い、風景にうたれ、その縁でここに別荘を構えました。後に海舟の遺言で、屋敷裏の台地に葬られたと伝えられます。奥さんのお墓も青山からここに移されたそうです。
勝海舟(1823年から1899年)は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中、洗足池畔に憩い、風景にうたれ、その縁でここに別荘を構えました。後に海舟の遺言で、屋敷裏の台地に葬られたと伝えられます。説明文には『 ①勝海舟夫妻墓所【大田区指定史跡】勝海舟は、官軍のおかれた池上本門寺に赴く途中で休んだ洗足池の景勝を愛し、明治24年(1891) に別邸を構え、「洗足軒」 と名づけました(今の大森第六中学校辺り)。 明治32年(1899) 1月21日に77歳で没した後、 遺言により当地に葬られました。同38年(1905)、 妻民子が死去し青山墓地に葬られましたが、 後に改葬され、現在は夫妻の五輪塔の墓石が並んで建っています。 当史跡は昭和49年(1974)2月2日に大田区指定文化財となりました。②水舟(手水石)勝海舟が亡くなった直後の明治32年(1899)6月に、 勝を慕う人々によって墓前に奉納されたものです。背面には嘉納治五郎、榎本武揚、津田真道、赤松則良ら著名な人々50余人の名が刻まれています。③東京奠都七十周年記念碑東京首都化70周年記念碑昭和14年(1939)、東京奠都70周年を記念して当時の東京市長小橋一太により建てられました。勝安房(海舟) と 西郷隆盛の対話によって江戸が戦火を 免れ、その結果東京として大いに発展できたことを称えています。』と書かれています。
洗足池の畔に池の方を望む形で勝海舟夫妻の墓が建立されています。 この場所に葬るよう、勝海舟が生前の希望したそうです。墓標の海舟の文字は、徳川慶喜公によるものといわれています。
日曜の朝、妹のLINEがあった。NHKBSの番組で、勝海舟の墓が洗足池の畔にあるとのことだった。50年前に流行った池上線の歌で盛り上がり、一時間後には電車に乗った。蒲田で池上線に乗り換えたが、車両がボロくないのに驚いた。目蒲線と同じで、東急の廃車寸前の車両しか走っていなかった路線が、ステンレス製の車両なのである。墓の周囲は清掃が行き届き、我が郷土の英雄西郷南洲翁の碑があることも賛辞に値する。
手入れの行き届いた墓所。人生終焉の地で安らかに眠っておられるわけだが、奥様は最後まで同じ墓に入ることに抵抗されていたことを思うと、やや複雑な気もしないではない。後世の我々は、有難たがってお参りをするわけだが、「男なんてどうしようもない生き物」と草葉の陰から小言を言われている様な気もする。英雄色を好むとは言うものの、あれだけの仕事をこなしながらよく女性に気が回せるものだと、違う意味で偉大な人物であると感服する。
尊敬する勝海舟先生の墓前に行ってきました。洗足池のほとりの景色を愛でなから手を合わせてきました。
幕末の勝海舟公のお墓です。ここに、ひっそりとありました。
歴史を感じる場所です。
| 名前 |
勝海舟夫妻の墓 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
03-3777-1070 |
| HP |
http://www.city.ota.tokyo.jp/shisetsu/rekishi/yukigaya_senzoku/katsukaishuu_bosho.html |
| 評価 |
4.1 |
| 住所 |
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東京都大田区の洗足池畔に眠る勝海舟。幕臣ながら最後の将軍・徳川慶喜に疎まれていたという逸話も残る彼ですが、江戸城無血開城実現のため西郷隆盛との談判の成功、明治31年の慶喜の完全赦免に尽力など、やはり偉大な人物だったのですね。