旧ソ建築の圧巻と、インディギルカ号の哀歴。
インディギルカ号遭難者慰霊碑の特徴
旧ソ建築の雰囲気に圧倒される独特の記念碑です。
猿払村の道の駅海側に位置し、アプローチが便利なスポットです。
冬の北海道での遭難事故にまつわる重い歴史が感じられる場所です。
インディギルカ号遭難者慰霊碑☆この場所はさるふつ公園の目の前にある記念碑・慰霊碑の公園になっています一か所じゃないですがまとめてupしますね☆この日は天気が良く海を走る船が何隻も移動していました。(中内容はちょっと難しいかな・・・)いつもありがとうございます。
若い頃、当時この慰霊碑がニュースにもなり、建立されてからであるが、宗谷圏をドライブした際に立ち寄りしたのだ。今回は四十数年ぶりである。インディギルカ号は、旧ソビエト連邦の貨客船である。1939年12月12日の未明ゆに、猿払村の浜鬼志別の沖合いで、座礁後に沈没してさまうのだ。全長80m前後と言われている。シベリアの港から、ウラジオストックを目指している途中に、暴風雨に巻き込まれて、宗谷岬の位置を見失い漂流し、座礁したとある。当時猿払村の住民が総出で救出活動して、子供を含め429名生存者を救出できたが。700名以上が死亡したされている。この事故は、当時も不審な船長を始め、ソ連政府も船の所有権を放棄、遺体の収容は不要、遺品も返還不要、、さらに救助された乗組員らは、12月中に小樽港から、ウラジオストックに帰国と、全く持ってふざけた状況下であったのだ😱😠😠。しかし猿払村は、1971年(昭和46年)にオホーツク海に面した場所に、慰霊碑を建立して、事故後も手厚く慰霊を行ってきたのだ。費用は寄付で賄われ、土台はソ連政府から寄贈されたシベリア産ね石材との事だ。どうもソビエト(ソ連)は、恩知らずだ。それに対してトルコに対しての救助は、いまでも友好国であるのとは、大違いだ。
初めて知りました‼️旧ソ連時代の謎に包まれる船の遭難事故、物凄く多くの人命が、冬の北海道の海で亡くなられたそうです、事故現場から近い猿払村の住民総出で救助せしも、多大なる人命が失われたそうです当時のソ連の対応は非常に冷淡で全て闇に包もうとしたそうです、まぁ~今の時代と違い簡単に不都合は闇に包める時代でも有りましたからね、猿払村の道の駅海側に建てられてますので、見学そして歴史上こんな事が有ったのねと思い馳せて下さい。
| 名前 |
インディギルカ号遭難者慰霊碑 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 電話番号 |
01635-2-2311 |
| HP |
http://www.vill.sarufutsu.hokkaido.jp/hotnews/detail/00000361.html |
| 評価 |
3.9 |
| 住所 |
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恐らく日本で見れる旧ソ建築場所と建築の雰囲気で圧倒されるだろう。