池田恒興の供養塔、歴史を感じる場所。
勝入塚の特徴
古戦場公園に位置する歴史的スポットです。
池田恒興公の供養塔がある重要な場所です。
小牧長久手の戦いに関わる歴史を感じられます。
長久手の戦いにおいて秀吉方の武将の池田恒興の供養塔です。家康の軍勢と激突、池田恒興、元助親子、森可成の二男、森長可が戦死しました。因みに森長可の弟は信長の近習で有名な森蘭丸です。森長可は槍の使い手で鬼武蔵の異名を称されていました。池田家はこの後、二男の池田輝政が家督を継ぎ美濃大垣城主として13万石を領する事になりました。
池田恒興公の討ち死に場所です。左翼の森長可公が討ち死にして、敗戦濃厚の中で森軍救援や自軍を立て直そう必死になっていたようですが、徳川方の永井伝八郎直勝に討ち取られました。勝入塚の石碑は2つあり右側の大きな石碑は明治時代に建てられ、左側の石碑は1771年の江戸時代に尾張藩士により建てられたそうです。家康公の天下取りの第一歩となったこの地は江戸時代を通し、尾張藩士の戦跡巡りで人気スポットだったようで、各地に石碑が残っています。
勝入\u003d池田恒興が小牧長久手の戦いで討死したとされる場所にたてられています。結構立派な石碑です。周り一帯が古戦場公園としてきれいに整備されています。子ども連れにもおすすめの公園内にあります。園内の資料館に詳しい説明があります。
池田恒興が戦死した場所だそうです。
長久手合戦時の秀吉方の武将で池田恒興(勝入斎)のはかだそうです。
古戦場公園の中央やや北の駐車場そばにあります。以下は看板記載の説明文です。----------国史跡 長久手古戦場 勝入塚池田恒興(1536~84、庄三郎、信輝、勝入斎)の戦死の場所と伝えられています。恒興は美濃(岐阜県)大垣城主で、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いの時は秀吉に味方しました。この戦いの中、小牧山(小牧市)と楽田(犬山市)で家康と秀吉が対峙したとき、家康の本拠地の岡崎攻めを秀吉に進言し、自ら軍を率いて侵攻しました。しかし、途中、岩崎城(日進市)を攻めるのに手間どり、家康軍先遣隊に追撃の機会を与えてしまいました。結局この地で家康の本隊に会い、仏が根の戦闘で戦死しました。恒興は、天正8年(1580)入道し、勝入斎と名乗りました。塚名はこの法名にちなむものです。長久手市教育委員会。
名前 |
勝入塚 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
HP | |
評価 |
3.9 |
周辺のオススメ

古戦場公園の中にあり、池田恒興が戦死した地と言われています。