平安時代の足跡、山口城跡。
山口城跡の特徴
平安時代末期の武士団による築城跡が身近にあります。
地元豪族山口氏の居館跡がしっかり見れる貴重な場所です。
現在は周囲にマクドナルドやセブンイレブンがあり活気があります。
平安時代の武士団の古い城跡がこんな身近にあったとは、発見です。
地元の山城。此処にくると、観光で訪れる天守閣のあるお城には無い、かつて此処に暮らしていた人々と、その後此処に暮らした人々とのつながりを感じます。
過去と現在が交差してる。土塁と看板のフュージョン。目に見えないカが集まり、気配渦巻く、まさに「交差点」。アップデートし続けるパワースポットといえるだろう。
西武狭山線の線路脇に解説板と土塁の残欠が残っています。開発著しい中でこれだけ残っただけでも奇跡なのかも。
山口地区にある山口城跡は、平安時代末期に武蔵七党の村山党から分かれた山口氏の居館跡です。村山党とは武士団のひとつで、狭山丘陵南部の多摩郡村山郷を本拠地としていました。始祖の村山頼任の孫にあたる家継が村山氏から分かれ、山口の地に居を構えて山口氏を名乗ります。東西200メートル、南北200メートルの範囲に、土塁と堀が散在していましたが、河川改修・道路・鉄道・住宅建設などによって破壊され、城の原形は不明です。これまでの発掘調査によって、「山口城址前」交差点付近に城の中心部があったと推測されます。
所沢市の歴史を学んだ時にまず出てくる城跡です。市街地から西武ドームに向かう途中、セブンイレブンとマクドナルドがある一帯が城域だったらしいです。現地には遺構や展示館などがあるわけではなく、ここにかつて城があったという石碑と案内板がある程度です。あたかもそこに天守閣でもあったかのように土が盛ってあるのが見えますが、おそらく残土を積んだだけのような…。気をつけて見ないと通り過ぎてしまう所です。山口城跡から北の方面に行って小手指駅南方に、小手指ヶ原古戦場跡、白旗塚、誓詞橋、また所沢駅南方面に勢揃橋等新田義貞と鎌倉幕府との歴史的遺構がありますので歴史に興味がある方はぜひ見ていただきたいです。(ちなみに新田義貞像は、小手指ヶ原合戦後の分倍河原合戦のあった府中市の分倍河原駅前にあります…、小手指駅にも置いてほしい!)
「山口城跡」は平安時代末期に武蔵七党の村山党から分かれた山口氏の居館跡だそうです。東西200メートル、南北200メートルの範囲に、土塁と堀が散在していたそうですが、河川改修・道路・鉄道・住宅建設などによって破壊され、城の原形は不明です。これまでの発掘調査によって、「山口城址前」交差点付近に城の中心部があったと推測されます。山口城は1590年の小田原征伐で敗戦し廃城になリました。以後は再度城郭として用いられることはなく、江戸時代には敷地の大半は開拓されて畑地や住居、溜池などに転用されたとの事。明治以後は更に道路や鉄道が建設され、開発によってその大半が失われました。現在は城が在ったことに関連する地名が見られるものの、往時の遺構は一部しか残存しません。城郭跡であることを示す碑と案内板が設置されたのみです。平成12年(2000年)になり商業地として開発されることとなり、当初は遺構を取り壊して完全に整地される計画もあったそうですが、開発反対と遺構の保存を求める運動が起き、商業地として開発される敷地のうち一部が整備されて保存されることになったそうです。
地元豪族山口氏の居城と考えられているお城です。西武新宿線と県道、宅地によってほとんどは崩されてしまいましたが線路沿いなど一部の土塁が良好に残っています。交差点に大判の案内板がありますのでそれを見てから現物を確認すると良いでしょう。所沢市埋蔵文化財センターに周辺地勢展示と発掘記録書が所蔵されていますので詳しく知りたい方は足を運んでみてください。
ちょっと盛り上がった場所。とくになにがあるというわけではない。上の看板の方が気になる。
| 名前 |
山口城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP | |
| 評価 |
3.2 |
| 住所 |
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平安末期武蔵七党村山党の山口氏により築城され戦国末期に廃城となった城(館)跡。城跡は、現「山口城趾前交差点」付近を中心に南北約200m・東西約400mの範囲と考えられているが、大半は開発により失われている。城址西沿いの「山口城址前通り」を南から向かうと山口民俗資料館前を過ぎ柳瀬川を越える児泉橋を渡ると西武狭山線「西7」踏切右手に2号土塁(一見普通の石垣風)が見える。北からは「山口小通り」を南に向かうと右手のマクドナルドの左斜め前方に1号土塁(一見残土置き場の様)が見える。コインランドリーの大きな看板の下に解説板が設置されている。1号土塁南の法面には古い石祠二つが並んでいる。向かって右には正面に「水神」、側面に「八右エ門」と言うお名前が見える、向かって左の側面には「岡民右エ門」と見えるが、名主の岩岡民右衛門さんかもしれない。