信長が見守る歴史の墓。
嫩桂山 久昌寺の特徴
信長公の側室、生駒吉乃のお墓がここにあります。
歴史ある寺の名残を感じる場所となっています。
神仏を信じない信長の歴史を辿れる貴重な史跡です。
歴史ある寺が荒寺になりかけてます。お金がかかる事とはいえもったいないし、眠っている方々もかわいそうです。
信長公の側室 生駒吉乃のお墓があります 信忠 信雄 徳姫の母親です戦国武将 歴史が好きな方は是非お寺には 住職さんは居ないみたいですね 😓😓
名前 |
嫩桂山 久昌寺 |
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ジャンル |
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電話番号 |
0587-54-1111 |
住所 |
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HP | |
評価 |
3.8 |
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神仏を信じない信長が掘らせた観音像の墓吉乃の面影が刻まれた墓がここに残ります。「久菴桂昌大禅定尼」享年39歳。 戦国の覇王織田信長が最も愛した女性がこの地に眠ります。伝わる名前は、生駒 吉乃(いこま きつの、享禄元年(1528年)生まれ織田 信長(おだ のぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉より6歳年上です。吉乃の生家は、武家商人として、尾張国、三河国、美濃でも商売をしていたと言われる生駒家。小折町(江南市)を代表する名主として、清須の織田家をバックアップする存在でした。生駒家の拠点、生駒雲求屋敷は、国境にあり様々な土地の人が出入りしていたこともあり、多くの情報が集まる場所でもありました。そこには、情報収集のために出入りする元服前の織田信長の姿もありました。美濃斎藤家の情報・岩倉織田家の情報を求め、生駒雲求屋敷に出入りしていました。屋敷で、色白細身の美人、吉乃を見かけます。聞けば、戦で夫をなくした未亡人。混乱の時代、珍しい話ではありません。清州城から生駒の屋敷までは約10キロ。馬を飛ばして約1時間。毎日のように通いました。若き信長の情熱に押される形で二人は結ばれ信忠・信雄・徳姫の2男1女を授かります。そんな折、信長の元に知らせが届きます。吉乃が産後の肥立ちが悪く、床に伏せているという知らせした。しばらくし、吉乃の病は全快することはなく、永禄1566年9月13日永眠この時、信長は人目もはばからず号泣したと伝わります。信長の命で作られた、吉乃の墓には観音像が彫り込まれています。神仏を信じない彼がどうしてそれを彫らせたのか?そこには、信長が抱く吉乃の面影が刻まれているのでしょう。