江戸期の供養、毛利季光の墓。
法華堂跡(北条義時墓)の上にあるお墓。元々は古墳時代の横穴墓だったものを江戸時代以降に転用したものです。毛利季光は毛利家の初代で宝治合戦の際に三浦一族と共に戦い自刃しました。毛利一族の多くが討死や自刃しましたが季光の四男の経光は越後にいて合戦に関わってなかったことから許され安芸国の領地を安堵されています。この毛利経光の子孫が戦国時代に中国に覇を唱えた安芸の毛利元就であり幕末明治に薩摩藩と共に明治維新を興した長州藩です。大江広元は毛利季光の父で源頼朝に仕え1185年頃に鎌倉幕府が成立した根拠となっている諸国に守護と地頭を置くことを朝廷に認めさせた文治の勅許を頼朝に献策した人物。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で推し(政子)に手を握られて文官なのにめっぽう強くなっていたあの大江殿です。島津忠久は島津家の初代。母が元は頼朝の側室であったことから島津家には忠久は頼朝の落胤だったという伝承が伝わっています。法華堂跡に現在の源頼朝のお墓を建てたのも江戸時代の薩摩藩主島津重豪です。
名前 |
毛利季光•大江広元•島津忠久の江戸期供養墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
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毛利季光•大江広元•島津忠久の江戸期供養墓。(202211)※左から毛利季光の墓、大江広元の墓、島津忠久の墓とされている。毛利季光(生年不明~1247年没)の墓所は、文政六年(1823)に、毛利斉煕(なりひろ)によって鶴岡八幡宮の西側(雪ノ下の鶯谷の地)に造営されました。その後、大正10年(1921)現在地に移設。毛利秀光は、大江広元の四男。大江広元(生年不明~1225年)文政六年(1823)に第10代長州藩主毛利斉煕(なりひろ)が造営。島津忠久(生年不明~1227年)は、鎌倉将軍家の御家人で後に薩摩藩主となる島津氏の祖となる人物です。忠久の祖母が将軍源頼朝の乳母だった縁から頼朝に重用されました。平氏追討などで活躍し、恩賞の一つとして南九州の島津荘(しまづのしょう)の地頭職に任ぜられました。島津家には、忠久が頼朝の庶子であったという説も伝わっており、安永八年(1779)に、時の薩摩藩主島津重豪(しまづしげひで)が頼朝の墓に近いこの地に祖先の忠久の墓を造営。🅿️駐車場は近くの観光駐車場。🚃最寄り鎌倉駅。🚻トイレなし。※客観的に普通のものが『最高』の評価になりませんので悪しからず。