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御囲堤の詳しい説明の掲示板があります。木曽川「御囲堤」扶桑町小淵のこの付近(木曽川の河口から五三・四畑付近)の堤防は、尾張地域を水害から守るため慶長十三(一六〇八)年に犬山から弥富に至る延長十二里(約四十七㎞)の間に築造されたと伝えられる大堤防の一部で通称「御囲堤」と呼ばれるものである。天正十四(一五八六年の洪水までの木曽川は、各務原市前渡付近から現在の境川筋を流れ墨俣付近で長良川に合流していたが、この洪水によって流路が一変し、ほぼ現在の河道を流れるようになった。この時、豊臣秀吉によって、美濃と尾張の国境は境川からこの新河道に変えられた。御囲堤の築造は、伊奈備前守忠次の発意を徳川家康が認め、慶長十三、十四年のわずか二ヶ年の間になされ、この完成により小信川(今の日光川筋)など尾張側へ流れ込んでいた諸派川はことごとく締切られた。この大堤防は、木曽川に対し尾張平野をスッポリとかこむ形であったので「御囲堤」と呼ばれるようになった(築堤延長十二里については、確かな資料は残されていない)。御囲堤築造の目的は、徳川ご三家のひとつ、尾張藩を木曽川の水害から守ることもさることながら、木曽川周辺が当時の東西勢力のぶつかる接触点であり、西国大名の侵入を防ぐ軍略上の意図もあったといわれている。伝えられる御囲堤の構造は、図のように当時としては立派なものであり、その後も修増築されている。一方、右岸の美濃側は政治基盤が弱く、「美濃の堤は尾張の堤より三尺低かるべし」という不文律にあるように輪中堤のわずかな増強を除いては一連の築堤が許されなかったこともあって、 木曽川の洪水は、はけ口を求めて美濃側の揖斐川、長良川およびその派川に流れて行った。国土交通省。