横浜公園でブラントンと出会う。
リチャード・ヘンリー・ブラントン像の特徴
リチャード・ヘンリー・ブラントンは日本の灯台の父と称される人物です。
横浜公園内、日本大通り側に位置する胸像です。
明治初期に灯台建設を指揮したイギリスの土木技術者です。
彼が来日しなければ横浜公園はなかったかもしれないわけで、とても大切な恩人のひとりといえる。明治元(1868)年明治新政府の招聘により来日した🇬🇧の技師 R・H・ブラントンは日本沿岸各地に灯台を建設するが、活動の拠点としていた横浜では日本大通りや横浜公園の設計も行い、近代的なまちづくりへの貢献は著しい。
ブラントンは自ら設計した日本大通りを通して横浜港を眺めているのでしょうか。明治政府に招聘された英国土木技術ブランドは、日本沿岸各地に灯台を建設する一方で、横浜公園の設計も行ったそうです。当初の設計案は、公園の北半分を芝生とするもので、クリケット用の芝生を設けるのはイギリス偏重の計画であるとアメリカが反発したり、費用がかかりすぎるということで大蔵省の認可がおりず、当初の4分の1という大幅に削減した予算で、神奈川県が最終実施案を作成したそうです。ブライトンの像の隣にパネルで横浜公園の歴史が説明されていますが、読んでみるとなかなかおもしろいですね。ブラントンと横浜明治元年(1868年)政府の招聘により来日した英国土木技師 R・H・ブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を 建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど近代的なまちづくりに大きな足跡をのこしました。横浜公園の歴史横浜公園誕生のきっかけは、幕末の1866 (慶応2) 年 11月に横浜を襲った大火でした。開港場のおよそ三分の一を焼失した火災を受けて、幕府と諸外国との間で 「横浜居留地改造及競馬場墓地等約書」が結ばれ、大火で全焼した旧太田屋新田の港崎 (みよざき) 遊郭の跡地に、外国人と日本人の双方が利用できる「公けの遊園」を設置することが定められました。公園は外国人居留地と日本人市街地を隔てる防火道路(日本大通り) と一体的に計画され、イギリス人技師ブラントン(R.H.Brunton) による原設計をもとに、神奈川県が実施設計を担当して造営されました。1876(明治9)年2月に開園し、居留外国人と日本人の双方が利用できる公園として「彼我(ひが) 公園」と呼ばれるようになりました。その後の横浜公園は、園域全体が横浜市の管理となった明治末期、関東大震災からの復興を遂げた昭和初期、そして終戦後の接収を経て、現在の横浜スタジアムが建設された昭和50年代と、三度にわたる大きな改 造を経て現在に至っています。現在も園内には、震災復興時の遺産として、公園中央の噴水池や縦溝入りのスクラッチタイルを貼った外周の腰壁、震災時に横浜公園へ避難した市民による謝恩植樹記念碑などが現存しており、2007(平成19)年 2月には、日本大通り・山下公園とあわせて国の登録記念物(名勝地)となりました。1 .彼我公園の誕生1866(慶応2) 年の約書で設置が定められた横浜公園ですが、造営に向けて動き始めるのは明治時代になってからのことで、日本の灯台建設のために イギリスから招聘された技師ブラントンに設計が委嘱されました。ブラントンによって1871 (明治4) 年に作成された当初の設計案は、公園の北半分を芝生とするものでしたが、クリケット用の芝生を設けるのはイギリス偏重の計画であるとアメリカが反発したため、翌年、芝生を中央部に縮小して移した第二案が作成されました。しかし、プラントンの計画案では費用がかかりすぎるため大蔵省の認可がおりず、1874(明 治7)年、当初の4分の1という大幅に削減した予算で、神奈川県が最終実施案を作成します。完成した公園は、中央部に矩形の芝生地を設け、その周辺に 曲線状の園路を配置したものでした。外国人と日本人の双方が利用できる「彼我(ひが) 公園」として、外国人居留地と日本人市街地の境界に誕生した横浜公園ですが、当初スポーツの場として公園を利用していたのはもっぱら外国人でした。2.市民が集う公園へ1876 (明治9) 年の開園以来、公園の管理は神奈川県 がおこなっていましたが、1878(明治11)年7月からは、居留外国人による横浜クリケットクラブに、公園中央のクリケット場が貸与されます。横浜公園ではクリケット以外にも、野球やフットボール、ラグビーなど様 々なスポーツがおこなわれていました。1899(明治32) 年の条約改正により居留地制度が撤 廃されると、同年8月からクリケット場以外の公園管理が神奈川県から横浜市へと移管され、1909(明治42) 9年12月には、公園全域が横浜市の管理となりました。横浜市は宮内省技師の茂出木朝二郎に設計を委嘱して、園内の改造に着手します。中央の芝生グラウンド は花園橋寄りの公園南東隅に移されて野球場となり、 市民がスポーツを楽しむ場所となりました。また日本大通り側には回遊園路をもつ日本庭園がつくられ、噴水池や藤棚、四阿などが整備されました。園内には桜が植えられ、春には多くの市民が集うようになりました。3.関東大震災からの復興1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災では、 多くの市民が横浜公園へと避難し、命が助かったと言われています。震災直後は公園内に罹災者住宅や仮設庁舎などが建てられていましたが、その後の震災復興事業のなかで、1928(昭和3)年から翌年にかけて、グラウンドとスタンド兼体育館、音楽堂が新たに整備されました。グラウンドは震災前の野球場を踏襲して、公園の南東隅に5,000坪(約16,500㎡) の規模で設けられ、定員13,800人、最大19,000人を収容する鉄筋コンクリート造2階建てのスタンド兼体育館も建設されました。このグラウンドでは、1929(昭和4)年に昭和天皇を 迎えて復興記念の奉迎式が開催されたほか、1934(昭 和9)年11月には、ベーブ・ルースやルー・ゲーリック を擁する全米野球チームが来日し、全日本チームとの試合がおこなわれました。また公園の北隅には音楽堂が建てられ、定員3,400人、 最大4,000人の収容人数を誇りました。4.接収を乗り越えて球場の西側(写真上) にある施設は米軍のスポ ーツ施設フライヤージム。1958(昭和33)年に返還され、横浜公園体育館として市民利用施設 となった。球場南側(写真左)を流れる派大岡 川は現在では埋め立てられ、首都高速横羽線と なっている。のちに横浜市庁舎が建てられる敷地はいまだ更地のままである。1945(昭和20)年の終戦ののち、公園内の野球場は接収を受けて米軍専用となり、大リーグの名選手の名前にちなんで「ゲーリック球場」と呼ばれるようになりました。しかし、1946(昭和21)年 7月には横浜貿易復興野球大会が開かれるなど、日本人による大会も早くから開催されており、1949 (昭和24)年10月には日米親善野球大会もおこなわれています。1952(昭和27)年に接収が解除さ れると、ゲーリック球場は当時の平沼亮三市長によって「平和球場」と改称されました。昭和50年代に入ると、プロ野球球団の誘致とともに新しいスタジアムの計画が進められます。公園内にあった野外音楽堂、県立武道館の施設は撤去されることになり、1978(昭和53)年3月、横浜大洋ホエールズ (当時)のホームスタジアムとして現在の横浜スタジアムが完成しました。山下町側の一角にあったアメリカ人専用のチャペルセンターもスタジアム完成後の同年6月に返還され、跡地には日本庭園が整備されます。こうして横浜公園は、昭和50年代前半にほぼ現在に近い形となり、平成20年から再整備がおこなわれ、現在の姿となっています。
リチャード・ヘンリー・ブラントン氏はイギリスの土木技術者で、明治政府の依頼で明治初期に灯台建設を指揮した。
横浜公園内にある胸像。英国・スコットランド出身の建築技師。本来は灯台建築技師として、来日した(日本各地にその灯台がある)。「日本の灯台の父」と言われている。この横浜公園や日本大通り、中村川の拡幅等、吉田橋(鉄の橋)架設にも携わり、横浜~新橋間の日本初の鉄道や、大阪港・新潟港の設計にも意見書を提出している。犬吠埼灯台(千葉県銚子市)や石廊崎灯台(静岡県南伊豆)、角島灯台(山口県下関市)もブラントン氏の設計で、全国にある30棟余りの設計に携わった。
2024年2月平日お昼過ぎに行きました。横浜公園の海側の入り口付近にあります。となりに公園の説明などもあるので一緒に見ると良いです。
リチャード・ヘンリー・ブラントンは日本史では「日本の灯台の父」として讃えられている人物である。横浜においては電信の架設や西洋式の道路の舗装など、居留地を中心に広く都市計画に携わっている。その中でも下水道整備の面でピックアップされており、環境創造局管路保全課で発行の「横浜の下水道遺構マップ」において、この像が紹介されている。文字通り、横浜の基礎を作った偉人だ。
横浜公園内にあり、日本大通り側から入る公園入り口に設置されています。いきなり設置されている像のブラントンは、「明治元年(1868年)政府の招聘により来日した英国人土木技師R・H・ブラントンは、開国にともない、日本沿岸各地に灯台を建設する一方、8年間にわたり活動の拠点としていた横浜では、日本大通りや横浜公園の設計を行うなど、近代的なまちづくり大きな足跡をのこしました。」とありました。今、横浜の歴史を感じることができるのは、この人の功績でもあるようです。
いわゆる「お雇い外国人」の一人。土木技師らしい。横浜の飛び地ロンドンっぽさは、このイギリス人の都市設計から来ているようだ。
| 名前 |
リチャード・ヘンリー・ブラントン像 |
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| ジャンル |
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| 評価 |
3.8 |
| 住所 |
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日本大通りや横浜公園を設計した人らしい。