古墳と景色が織りなす相模国の魅力。
埒免古墳の特徴
恵泉女学園内に位置し、整備が行き届いています。
古墳を通り過ぎた元宮様からの絶景が楽しめます。
相模国の歴史を考える上で重要な古墳です。
よく整備されております。学校内に在りますが入れました。三ノ宮比々多神社と関連する勢力でしょうか。
古墳を通り過ぎた坂の上の元宮様からの景色は最高でした!!!
敷地内のため石室を見られません。
相模国の歴史を考える上で鍵となる古墳です。学校の敷地内になるため、自由に見学とかは出来ないようです。上手く古墳だけポケットパークのように出来たらと思いました。
「新編相模国風土記稿」によればこの地は、戦国時代以前(天平年間)の三ノ宮比々多神社が有った所とされ、この一帯の関連する発掘調査で相模国の最大級の古墳であることが明らかになりました。---比々多神社のhpによれば---埒面(らちめん)天正19年(1591)以前、社殿のあった旧境内地(7町歩)をいい、大祭の折に、鉄棒(かなぼう)を組み警護する事を埒を組むといいます。この言葉は、京都・上賀茂(かみがも)神社で生まれたそうです。毎年5月5日に行われる賀茂競馬(かもくらべうま)という、その年の吉凶を占う伝統神事において、皆がその行事に集中し、これが終わらないと何事も手につかず、埒(らち)が明かないそうです。無事終わると、馬場の柵である「埒」が片付けられ、埒が明くというわけです。漢字で記すと、「明かん」。「埒が明く」の否定形、「埒が明かぬ」の「明かぬ」が「明かん」になったということです。実は、比々多神社の北側に、「埒面」(らちめん)という字名があります。昔は、ここに馬場があり、神事として競馬が行われていました。語源はやはり上記と同じです。築造年代であるが「6世紀末から7世紀初頭」、室町時代から戦国時代にかけて神社は衰えて荒廃し、天正年間の初めになって現在の場所に移転したとされている。構造と規模は、直径38メートルの円墳で、墳丘周囲には約5メートルの周溝がある。埋葬施設は幅約2メートル、長さ約4.8メートルの玄室と、幅約1メートル、長さ約4メートルの、自然石の巨石を積み上げて築造された片袖式横穴式石室である。古墳の築造時期は600年頃と考えられ、当時の相模国では最大級の古墳で、古墳の被葬者としては※相武国造(さがみのくにのみやつこ・さがむこくぞう)が想定されている。※相模国東部を支配した国造。1968年、恵泉女学園園芸短期大学の建設工事中、古墳の石室が発見されたことにより埒免古墳は発見された。古墳の石室から出土した遺物は、工事中に偶然発見されたこともあり、工事関係者に持ち出されてしまったが、比々多神社宮司の努力により銀装の装飾大刀と考えられる直刀、刀子、金銅製馬具、鏡、鉄鏃、琥珀製棗玉などが回収され、現在は比々多神社にある「三ノ宮郷土博物館」に収蔵されている。
比々多神社の社伝と地名から古墳が存在するのは明白だったのに、神奈川県教育委員会が発掘調査を怠ったばかりか学校建設による破壊を容認した結果、学校建設を担当した土建屋の労働者達に盗掘掠奪された古墳。そんな事して建てた大学も当然廃校に・・・盗掘された際に義憤を感じ義挙した比々多神社宮司様や氏子さん達が盗掘者の土建労働者から一部の出土品を取り戻したが、後の祭り。神奈川県教育委員会の大失態の代表例。
立ち入り禁止だし、一見ナニコレな場所だが、戦国時代くらいまでは比々多神社はこの場所にあったとされ、その地中には相模国いちの壮大な古墳と壮麗なお宝の数々が眠っていた。開発、破壊、盗掘。といろいろあって今はシーン。としている。どうして無計画に掘っちゃったの。? と、悲しくなりますね。現代人の罪を灌ぐためにも、古人を弔い、古墳公園にでもしてほしい。
比々多神社の社伝と地名から古墳が存在するのは明白だったのに、神奈川県教育委員会が発掘調査を怠ったばかりか学校建設による破壊を容認した結果、学校建設を担当した土建屋の労働者達に盗掘掠奪された古墳。そんな事して建てた大学も当然廃校に・・・盗掘された際に義憤を感じ義挙した比々多神社宮司様や氏子さん達が盗掘者の土建労働者から一部の出土品を取り戻したが、後の祭り。神奈川県教育委員会の大失態の代表例。
名前 |
埒免古墳 |
---|---|
ジャンル |
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電話番号 |
0463-94-4711 |
住所 |
|
HP |
https://www.city.isehara.kanagawa.jp/bunkazai/docs/2013060300223/ |
評価 |
3.4 |
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恵泉女学園の敷地内なので門から覗くことしかできません。学校は廃止されてるので、なんとかここだけ自由に見れるようになるといいと思ってます。