豊後高田の歴史、古墳時代を感じる!
豊後高田市教育委員会『豊後高田市の文化財』県指定文化財 より・史跡・指定日:昭和49年3月19日・所在地:新栄・年代:古墳時代中期大型の帆立貝式古墳。 周防灘を臨む台端部に立地し、規模は径約 71m、後円部径 60m、高さ 8m。造り出し部の長さ 8m、幅 20m 高さ 2m。後円部は3 段築成、造り出しは南側に付設されており、幅 20m 程の周濠が廻る。明治 34 年頃後円部の中心から箱式石棺が発掘され、四獣鏡、鉄剣等が出土している。西国東地方では真玉大塚古墳に次ぐ規模をもっており、この地方の5 世紀代の首長墓とみられる。================ぶんごたかだ 文化財ライブラリー vol.3「豊後高田の古墳」より入津原丸山古墳は広瀬川南岸の段丘の突端部に位置しています。円丘部の径は約70m、高さ約10m。これに、祭祀を行う場とされる大型の「造出」(長さ約7m、幅約23m)を伴った長径約77mの帆立貝形古墳です。円丘部は三段築成、周囲に濠を巡らします。右上の写真のように、古墳の形に沿って幅広い濠の形が水田となって残っていることが分かります。埋葬施設は安山岩製の箱式石棺で、墳丘上にある石碑に部材の一部が転用されています。1901年(明治34)に発掘調査が行われており、鏡・革綴短甲・玉類・滑石製品などの副葬品が発見されています。出土品は現在、東京国立博物館が所蔵しています。また、円筒埴輪・朝顔形埴輪などが現地で採集されています。その中には、方形もしくは三角透かしとみられるものがあり、これらの特徴から、入津原丸山古墳は4世紀末~5世紀初頭(古墳時代中期前半)の築造と推定されます。入津原丸山古墳の登場は、近隣に所在する古墳の形や規模等と比較すると、西国東の地に初めて広域的な盟主権が移行してきたことを物語っています。
名前 |
入津原丸山古墳 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.5 |
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ここより200m北の溜池?の裏山に円墳が2つがあると思います。