戦国の歴史、浄土宗の聖地。
二伝寺の特徴
浄土宗の由緒ある寺院で、戦国時代の玉縄北条家に関わる歴史の場所です。
1505年に開山された意外に新しいお寺で、古き良き歴史が感じられます。
紫陽花が美しい寺院で、富士山を眺めながら静かな時間を過ごせます。
かつては玉縄城の砦や関所の役目も担っていたらしい。現在は静かな浄土宗のお寺です。
観光寺ではないですね。
開山は1505年と意外に新し目?玉縄城主北条氏時発願。というか平良文・忠光・忠通公等三浦氏の祖先に当る人々の供養塔目当だったのでJR大船駅から大分歩いて登ります本堂から右にくぐって直ぐ松平正次一族の墓所も。
両親がお世話になりました。
落ち着いた佇まい‼️
9月に亡くなった親友のお墓参りに行って来ました。お墓の場所がわからなかったら、お墓がある場所まで、行ってくださり、助かりました。👍
藤沢散策で渡内を散策して、観て来ました。静かな佇まいで、良かっです。
紫陽花の似合うお寺です❗️
凄くいい天気だっていい場所散歩良く出来た渡内でした。
名前 |
二伝寺 |
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ジャンル |
/ |
電話番号 |
0466-23-8258 |
住所 |
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HP | |
評価 |
4.1 |
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神奈川県藤沢市に有ります「二伝寺」です。この寺は様々な時代の武将に縁のある場所との事で訪問です。また、自分の出自の人物にも関わりが有る様なので一度来たいと思っていました。二伝寺の創建年は戦国時代の永正2年(1505年)で、小田原北条氏が領国支配していた時期です。開基は北条氏時との事です。また、その後荒れ果てた二伝寺を中興したのが徳川家康が家臣の松平正次との事です。先にも触れましたが、この二伝寺(というかこの地)は様々な時代の武将に縁が有り古くは平安時代中期に、京の都から下向した平良文が近くの山城「村岡城」を築城し、この二伝寺辺りに居館を建て所領としたとの事です。平良文は坂東武家平氏の祖であり、子孫は複雑に枝分かれして沢山の武家へと繋がっています。「鎌倉殿の13人」の源頼朝の重臣達(御家人達)をはじめ、源頼朝挙兵の初期に源頼朝を助けた武家の殆どが、この平良文の後裔です。平(五郎)良文はこの地の村岡という地名から、村岡(五郎)良文という別名も持っていました。因みに、ここは後裔の三浦氏が建てた供養塔であり、墓所ではないとの事です。(住職談)墓所は、これまた一時期所領としていた香取市に有ります。自分の出自はこの平良文に繋がるとされていますので、香取市の墓所ともども訪問し少し掃除などして参りました。また、平良文は「平将門の乱」では平将門にお味方したと伝わります。平良文の子である平忠頼が将門の娘・春姫を正室にしていた関係からと思われます。因みに平良文は平将門の叔父に当たります。そして鎌倉時代には平良文の後裔(息子の1人である平忠光の子孫)三浦氏が、この地を所領としました。更に時代は下がり、戦国時代にはこの地は小田原北条氏の領国となり、北条早雲が永正9年(1512年)この二伝寺近くに「玉縄城」を築城しました。当時この二伝寺は玉縄城の縄張り内に有り、二伝寺砦という出城?的な物が有ったとの事です。因みに北条早雲の本姓は伊勢氏(伊勢平氏)であり、伊勢氏は平良文の異母兄弟である平国香の後裔とされており(将門の乱で将門と敵対した叔父の一人がこの平国香)、遠い親戚の血族である小田原北条氏が、後にこの地を治めたのも、是非にあらずでしょうかね。(平国香の後裔には平清盛なども居ます)その後更に時代は下がり、徳川家康が関八州に国替えされた坂東(関東)移封にともない、家臣である松平正次がこの地を所領として拝領され、その際に荒れ果てていた二伝寺を中興したとの事です。松平正次や正次の正室、また正次直系の子孫の墓所が有りました。小田原北条氏系の遺跡は、徳川氏(豊臣氏)に負けてしまった時に淘汰されてしまった様で、何も残っていませんでした。様々な時代の武人を見守って来た寺(または地)で、歴史的観点から非常に感慨深い場所でした。