歴史を感じる大正時代の石碑。
問注所舊蹟碑の特徴
道路を挟んで御成小学校の向かいに位置しています。
大正時代にできた石碑がひっそりと佇んでいます。
鎌倉の八百数十年の歴史を感じる場所です。
以前、鎌倉十橋の一つ、裁許橋を訪ねた際、近くに問注所があったことを知りました。鎌倉時代、現在の御成小学校付近に裁判事務を行う問注所があり、判決を受けた罪人が、六地蔵付近にあった処刑場に引かれていく時に渡ったことから、裁許橋の名が付いたそうです。橋も掛け替えられて当時の面影はありませんし、問注所も痕跡はないのだろうと、その時は通り過ぎたのですが、先日、近くを通った際、石碑があることに気が付きました。石碑には、源頼朝が、1184年に大蔵幕府の近くに裁判所を作ったけれど、騒々しかったので、源頼家が1199年に、こちらへ移したといったことが書かれています。800年も昔のことなので、用がなくなれば建物も無くなってしまうのでしょうけれど、地名や橋の名の由来を石碑から辿ることができ、当時の様子を思い浮かべるのも楽しいですね。
建物の角に、石碑のみ。場所が判明しているだけマシか。
鎌倉の八百数十年の歴史 を感じます。
58.問注所旧蹟の碑アクセス:JR鎌倉駅西口から徒歩5分。「市役所前」の信号を左折、今小路にでる。すぐ「御成小前」の信号がある。 その信号の角の左手に「問注所跡」の石碑が建っている。現在、石碑付近には大きなマンションが建てられており、石碑から当時の様子を伺い知る状況となっている。由来 :・鎌倉幕府の裁判機関として政所に続いて源頼朝が1184年(元暦元年)に設置しました。・問注所跡の前を通る道はかつて今大路と呼ばれ、化粧坂から長谷大路までをつなぎました。・当初、問注所は訴訟に対する裁判事務は行わず、武家棟梁である源頼朝へ訴訟事案を進達することを任務としていた。・『吾妻鏡』には、頼朝邸内の東西にある小さな建物を問注所と号したとある。・頼朝邸内に多数の訴人が集まり、怒号・喧噪が飛び交ったため、頼朝はそれにうんざりし問注所の移転を命じた。その結果建久10年(1199年)4月1日、問注所は別の場所へ移転されたが、その直前に頼朝は死亡していた。・現在、移転後の地(現御成小学校前)には「問注所旧蹟碑」が立てられている。・また由比ガ浜から問注所へ向かう道筋に、「裁許橋」があり、さらに、訴訟の結果、由比ガ浜で処刑された者の供養のための六地蔵などがある。
アーニー(原文)阿仏尼。
御成小学校に見とれていたら反対側の交差点角にあるのを偶然見つけました。…鎌倉タイムによれば… 鎌倉幕府の裁判機関として政所に続いて源頼朝が1184年(元暦元年)に設置しました。頼朝の伊豆配流時代から助力を惜しまなかった三善康信が執事となり、以後三善氏の一族が執事を世襲しました。当初は源頼朝の屋敷である大倉幕府内にありましたが、第2代将軍源頼家の時代に現在石碑が設置されている御成小学校前の地に移設されました。問注所跡の前を通る道はかつて今大路と呼ばれ、化粧坂から長谷大路までをつなぎました。
大正時代にできた石碑がある。
名前 |
問注所舊蹟碑 |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
評価 |
3.7 |
周辺のオススメ

道路を挟んで御成小学校の向かいにあります。今は石碑があるだけで、鎌倉駅の方から歩いてくると、立派な御成小学校の門と校舎に目が奪われ、うっかり通り過ぎそうです。初代は鎌倉殿の13人の一人、三善康信です。