歴史の息吹、三浦按針墓探訪。
三浦安針墓(安針塚)の特徴
教科書にも登場する三浦按針の夫妻供養塔がある場所です。
塚山公園の静かな森を散策しながら訪れることができますよ。
三浦安針祭観桜会イベントが開催され、賑わいを見せます。
◆『安針塚』は、塚山公園の南西に位置し、急傾斜の階段の頂上にあります。◆2基の供養塔があり、右塔が三浦按針(ウィリアム・アダムス)、左塔が妻です。
駐車場無し。車で行っても少し険しい。
教科書にも登場するほど知られている三浦按針は、大航海時代の英国人航海士で、オランダ東インド会社の帆船に乗って来航した。ロッテルダム出航時は5隻110人だった帆船団も、2年の航海を経て1隻24人だけとなり、ようやく豊後水道の黒島にたどり着いという。当時の日本は関ヶ原の戦いが始まる半年前、五大老首座だった徳川家康が、大阪に護送されてきた3人の乗組員から話を聞いた。西洋事情などを熱心に話す2人に感心した家康は、ウィリアム・アダムス(三浦按針)とヤン・ヨーステン(耶楊子)を江戸に招き屋敷を与えたという。造船知識があったアダムスは、家康の要請により伊東で日本初の大型帆船を建造。この功績によって旗本に取り立てられ、領地(三浦郡浦賀邸と逸見村)を得て三浦按針を名乗る。しかし、徳川秀忠の時代になると鎖国体制となって不遇となり、天文管として平戸に移されて1620年55才で亡くなったという。埋葬地は平戸とされているが、1902年の日英同盟を機に、塚山公園が作られて按針塚周辺が整備されたらしい。(史実:wiki)車でも安針台第2公園近くに本町山中道路の下を通る細い道があるが駐車場が無いようだ。
静かで森を散策しながら、三浦安針さんの墓に行ってきました。景色も良くみなとみらい方向も良く見えました。
英国人ウィリアム・アダムスが乗った船が難破し日本に上陸したのは豊臣秀吉が生きていた時代だ。その後を次いだ家康は彼を重用して日本人名として「三浦按針」と名付けた。三浦按針は家康に海外情勢を聞かせ、海外の最新の船舶技術を日本に持ち込んだ。そして、伊東にて日本おける最大の帆船を作り上げることに成功した。家康は彼に名字帯刀を許し、横須賀の一部に彼の領地を与えたのである。その地こそ現在安針塚と呼ばれる一体であり。彼の墓所とされている所の一つである。なお、彼の墓所とされているところはいくつかあり、長崎の出島付近などにもあるそうだ。2018年の調査で江戸時代ごろの人骨が出て日本人のDNAではないことがわかったそうだ。どうやら出島に近いところに本当に埋葬されたのかもしれませんね。
日本に来た初めてもイングランド人とされている三浦按針ことウイリアムアダムスのお墓です。三浦按針はあの「ガリバー旅行記」もモデルかも知れないという都市伝説もあります。
近くの塚山公園から眺める、横須賀の海&米軍基地が素晴らしいですね。冬の晴れた時期になれば、東京スカイツリーも見れますが、少し遠いイメージですね。
みうらあんじんぼ三浦按針と妻の供養塔【三浦按針】英国人航海士ウィリアム・アダムズ乗っていたオランダ船が日本に漂着逸見を家康から領地として与えられ旗本侍にガリバーのモデルとも言われている●4/8_三浦安針祭観桜会(1020~踊り/安針墓に献花/11式典/1150くす玉割り/1205踊りu0026盆踊り/1315終了)。盆踊り曲目_塚山音頭/よこすか開国おどり/よこすか音頭/ダンシングヒーローなど。
名称は「三浦按針墓」で合っているが、実際には供養塔。由良波留氏のレビューに詳しく書かれているので是非ご覧になって下さい。長崎県平戸の「伝三浦按針墓」では、2017年に発掘調査が行われ、こちらでは遺骨が発見された。いまだ確定には至っては居ないが、例えどちらが墓であっても供養する気持ちが大切だと思う。毎年四月には「三浦按針祭」が催され、静岡県伊東市との親交関係も深めている。最近、地元では「NHKの大河」に!とする運動が行われている。まだまだ知名度が低い為、実現は先になりそうだが詳しく知れば大変興味深い人物なので期待したいところです。
名前 |
三浦安針墓(安針塚) |
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ジャンル |
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電話番号 |
046-822-8484 |
住所 |
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HP |
http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/8120/bunkazai/kuni09.html |
評価 |
4.2 |
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三浦安針夫妻の供養塔です。