徳川綱吉ゆかりの鷹場を散策。
徳川綱吉御殿跡の特徴
徳川綱吉が薬療養のために築いた御殿の跡地です。
鷹狩りの名残を感じられる静かな緑道に位置しています。
遊歩道にひっそりと立つ石碑が歴史を物語っています。
生類憐れみの令を中心とした統治は、徳川綱吉が亡くなるまで続けられます。老中を遠ざけ、側用人を重用していたため、誰も徳川綱吉に意見することもできなかったのです。綱吉は、息子である6代将軍「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)に指示しましたが、徳川家宣は将軍就任後に、順次父が行なっていた規制を撤廃していきます。もっとも、徳川綱吉が望んでいた儒教思想は、ゆっくりとではありますが、少しずつ、確実に江戸庶民の間に根付いていきましす。徳川綱吉は、「忠臣蔵」(ちゅうしんぐら)のなかで「浅野内匠頭」(あさのたくみのかみ)に一方的に切腹を命じ、「赤穂藩」(あこうはん)を改易した将軍として描かれました。また、時代劇・水戸黄門でも、生類憐れみの令を徳川光圀が軽んじて、徳川綱吉に動物の毛皮を贈るという皮肉に満ちた演出がされています。こういった創作の影響で悪役の印象が強い徳川綱吉ですが、近年では、江戸の秩序維持に貢献した、優れた将軍であったと言う見方が主流となりつつあるのです。実際に、8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)は「享保の改革」(きょうほうのかいかく)を実行する際に、徳川綱吉の「天和の治」(てんなのち)を参考にしたと言われています。また、生類憐れみの令のなかで、「弱い立場の人達を慈しみ、動物を大切にすることは動物愛護の先駆け成った綱吉の政策で」した。つまり病人の保護や、捨て子の禁止を奨励したことで、道端に死体を放置するなどの非人道的な光景が次第になくなっていきました。確かに、動物を極端に手厚く保護するという一点に焦点をあてれば、悪法と呼ばれても仕方ない面もあります。しかし同時に発した、人々の秩序を正す法令は、現代まで続く日本の平和を維持する礎になったという見方もできるのです。綱吉に対する評価は、当時から賛否両論ありましたが、儒教を根付かせた将軍でした。此れに徳川綱吉に謁見したドイツ人医師「エンゲルベルト・ケンペル」は、自著「日本誌」のなかで、徳川綱吉を「将軍・徳川綱吉は偉大で優れた君主である。儒学を尊び、国と人々を等しく尊重し、彼の下ではすべての人が対等に生活をしている」と評価です。徳川綱吉と直接交流したことのあるケンペルのこうした評価は、決して軽視できない意見の一つと言えるのです。行き違い等々の切はご容赦下さいませ。本所亀沢町6代末孫。
遊歩道のようなところを歩いていたらいきなり石碑がありました。
緑道を歩けば見える石碑。史跡的意義を理解するには、もう少し前提知識が必要。
後に江戸幕府第五代将軍となる徳川綱吉が寛文年間にこの地を鷹場とし、宿泊所として鷹場御殿を建てたそうです。
普通の緑道にあり目立たない場所に有ります。
ちょうど、北町小学校の裏方にあります。こんな石碑があるなんて、知りませんでした。
石碑が立っています。ちょうど北町小学校の裏の遊歩道にあります。
お金の碑が遊歩道にあるだけ。
石碑が立っています。ちょうど北町小学校の裏の遊歩道にあります。
名前 |
徳川綱吉御殿跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.4 |
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鷹場(鷹狩りの場所)だったこの界隈に延宝5(1677)年、脚の疾患療養も兼ねて宿泊のできる御殿を造営したが、家綱公の薨去によって延宝8(1680)年に第5代将軍職に就くと江戸城へ戻り御殿は取り壊された。