新宿の隠れた歴史、石碑の魅力。
斎藤茂吉終焉の地の特徴
歩道側の石碑には、歴史的な説明板があるようです。
俳人・斎藤茂吉の終焉の地として有名な場所です。
通り過ぎてしまいがちな隠れた歴史スポットとなっています。
歩道側石碑の後方にも説明板があります。
気づいたら通り過ぎていました。あっさりしています。
俳人という認識でした。精神科医もされていたんですね。周辺には、全く面影はありません。
ここを何回か通ったけど、気づきませんでした。次に行くときは注意して通ります。
マンションの壁に説明があるのみです。
説明板があり、下のように書かれています。 この地は、歌人・精神科医の斎藤茂吉(1882~1953)が昭和二十五年(1950)から亡くなるまでの役二年間を過ごした場所である。 茂吉は、現在の山形県上山市の農家の三男として生まれ、十四歳で上京後、医師斎藤紀一が開く浅草医院に間借りし、第一高等学校に学んだ。 明治三十八年(1905)斎藤家の女婿(じょせい)となり東京帝国大学に入学、卒業後は、長崎勤務、ヨーロッパ留学を経て、養父が院長をつとめる青山脳病院に勤務、大正十三年(1924)に同病院が全焼すると、養父に代わり院長となり、その再建に尽力した。 歌人としては大学入学前後より作家をはじめ、間もなく伊藤左千夫に入門し「アララギ」の創刊に参加、その後「赤光(しゃっこう)」・「あらたま」・「つゆじも」など多数の歌集を発表した。 この地は、長男の茂太(精神科医・随筆家)が開業するための医院兼住居を新築したもので、妻輝子や次男宗吉(小説家 北杜夫)ら、文学に縁の深い一家が共に過ごした場所であった。茂吉はすでに最晩年であり、体調が優れなかったが、歌集「石泉(せきせん)」・「霜」を創刊し、文化勲章も受賞した。」当時の家屋は昭和六十三年(1988)に解体されたが、書斎は上山市の斎藤茂吉記念館内に復元展示されている。
説明書きがあるだけです。
「新宿のムーラン・ルージュのかたすみにゆふまぐれ居て我は泣きけり」合掌。
Продал
名前 |
斎藤茂吉終焉の地 |
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ジャンル |
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電話番号 |
03-5273-3563 |
住所 |
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HP |
https://www.regasu-shinjuku.or.jp/rekihaku/collection/shinjuku-collection/shiseki/91445/ |
評価 |
3.2 |
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歌人・精神科医の斎藤茂吉が昭和25年 から亡くなるまでの約2年間を過ごした場所です。茂吉は、現在の山形県上山市の農家に生まれ、十四歳で上京後、浅草医院に間借りし、第一高等学校に学びました。明治38年に斎藤家の女婿となり東京帝国大学に入学、卒業後は、長崎勤務、ヨーロッパ留学を経て、養父が院長をつとめる青山脳病院に勤務、大正13年に同病院が全焼すると、養父に代わり院長となり、その再建に尽くしました。歌人としては、大学入学前後より作歌をはじめ、間もなく伊藤左千夫に入門し「アララギ』の創刊に参加、その後「赤光」・「あらたま』・『つゆじも」など多数の歌集を発表しました。この地は、長男の茂太(精神科医・随筆家)が開業するための医院兼住居を新築したもので、妻輝子や次男宗吉(小説家 北杜夫)ら、文学に縁の深い一家がともに過ごした場所でした。当時の家屋は昭和63年に解体されましたが、書斎は上山市の斎藤茂吉記念館内に復元展示されています。今はビルの壁面に説明板があるだけです。