静かな北条坂で歴史を感じる。
鉄砲坂の特徴
江戸時代に幕府の鉄砲練習場があった坂道です。
広尾駅から徒歩5〜6分のアクセスが便利な場所です。
住宅地に続く閑静な雰囲気の坂です。
江戸時代、坂のがけ下に幕府の鉄砲練習場があったことからついたそうです。
愛育病院側からの一方通行、北条坂から続く一本の坂道ですが下の方で鉄砲坂に呼称が変わります。平日朝は7:30から8:30までスクールゾーン の交通規制があるので注意。夕方は高級外車とタクシーで混雑します。
広尾駅から徒歩で5~6分の場所に有る。坂名の由来は、坂の崖下に幕府の鉄砲練習場があったことからこの名が付いたらしい。坂上には北条坂が続く。
住宅地の中にある坂です。
坂の名が記憶されるのはよい。
北条坂の下半分が鉄砲坂と名付けられている。坂下近く南側に大名北条家の下屋敷があったために北条坂の名がついた。江戸時代に坂の崖下に幕府の鉄砲練習場があったことから鉄砲坂の名が付けられた。小田原征伐で後北条氏ほ戦国大名としては滅亡しました。しかし豊臣秀吉との和解を画策した北条氏直や氏規は赦された後に所領が与えられ、重臣の板部岡江雪斎の外交能力を活かして秀吉、次いで家康という権力者に仕えました。一方で主戦派であった北条氏照は切腹、北条氏邦は除名嘆願により剃髪といった哀れなその後をたどりました。北条氏直を継いだ北条氏盛の代には狭山藩主の地位を手に入れました。北条氏盛を筆頭に代々狭山藩主として約260年間に渡って所領を守り続けました。狭山藩は明治維新まで続き、12代藩主が華族に列せられました。嘉永二年の江戸切絵図「麻布広尾辺図」(近吾堂版)には、北条坂のふもとのほうに、「井上左太夫組、御先手組」とある。「御先手組」というのは、戦時または将軍他行の際、先頭に立つ部隊であって、与力同心をもって組織したものであるが、その中には有力な鉄砲組が含まれていたのである。その鉄砲組が練習するところが鉄砲坂の崖下にあった。それから、井上左太夫というのは、江戸時代の世襲の御鉄砲方御用衆であった。だから鉄砲坂付近には、この井上左太夫組の組屋敷があったのである。鉄砲坂の所在地は、西麻布3丁目2番、 南麻布5丁目12番、の間。
閑静な住宅街に続く道です。周辺には同様の坂が沢山あり、風情があります^ ^
| 名前 |
鉄砲坂 |
|---|---|
| ジャンル |
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| HP |
http://www.city.minato.tokyo.jp/kyouikucenter/kodomo/kids/machinami/saka/46.html |
| 評価 |
3.7 |
| 住所 |
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北条坂が途中から鉄砲坂となる。