江戸の歴史感じる、紀尾井町の石柱。
尾張名古屋藩屋敷跡の特徴
紀尾井町の町名由来が記された説明板が魅力的です。
尾張徳川家の藩邸があった歴史的な屋敷跡です。
ソフィア通り沿いに位置する静かな史跡です。
説明の掲示板には 紀尾井町の町名の由来などが書かれてありました。
特に何も無いよね~
徳川御三家の筆頭、尾張徳川家の藩邸があった場所です。
此の地位一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。寛永14年(1637)に拝領してから、藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かっ為に、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。義直は、尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。明治5年、此の地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。
その昔、この地には尾張名古屋藩の屋敷が存在していたそうです。現在はその面影はなく、案内板と記念碑が掲られてます。
遺跡などは残っていませんが、詳細な説明の看板🪧があり、来歴を知ることができます。
碑と説明板があり、説明板には下のように書かれてます。この一帯には、江戸時代に尾張名古屋藩徳川家の麹町邸がありました。寛永14年(1637)に拝領してから、藩主や世嗣が一時的に居住するなど様々な使われ方をしました。尾張徳川家は、徳川家康の九男義直に始まる家で、紀伊家(十男頼宣)、水戸家(十一男頼房)と共に、御三家と称され、義直が年長で知行高も多かったため、御三家筆頭となり大名の最高位に位置しました。義直は、尾張一国と木曽の山林を領地としました。尾張徳川家は以後、加増を重ねた結果、石高はほぼ61万9500石となり、16代にわたって明治維新まで続きました。明治5年、この地域は紀伊徳川家・尾張徳川家・井伊家の頭文字を合わせて、「紀尾井町」という町名になりました。
ホテルニューオータニと上智大学入り口の間ぐらいにある、ソフィア通り沿いのカトリック麹町 聖イグナチオ協会の敷地にあります。以下、史跡ネットさんからの出典です。御三家筆頭尾張名古屋藩徳川家の中屋敷跡。尾張名古屋藩は徳川家康の九男徳川義直を藩祖とする61万石の藩。尾張名古屋藩14代藩主慶勝、会津藩9代藩主松平容保、桑名藩4代藩主松平定敬の兄弟を輩出した美濃高須藩は尾張名古屋藩の分家にあたる。
「紀尾井町」の「尾」の由来である尾張名古屋藩屋敷跡の石碑です。四ツ谷駅から上智大学脇に伸びるソフィア通りをニューオータニ方面へ向かうと左手側に見えます。
| 名前 |
尾張名古屋藩屋敷跡 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.6 |
| 住所 |
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