東京ミッドタウンの隠れた日本庭園。
萩藩毛利家下屋敷跡の特徴
東京ミッドタウンの近くに、静かな日本庭園があります。
江戸時代の名残を感じる庭園が広がり、癒されるスポットです。
休憩所から池を眺めながらリラックスできる場所です。
屋敷跡を示す具体的なものは無かったような気がします。私が見つけられなかっただけかもしれないけど。
ミッドタウンのすぐそばにこんなにいい庭園があるとはすごいです。屋敷が残ってたらもっと良かった!
素晴らしい…💖庭園…。池。公園です…!
下屋敷は火災時の避難場所や、藩主の保養や接待場所として使用された。毛利家の屋敷は幕末まで同じ場所にあった。幕末元治元年(1864)7月24日、『禁門の変』(または「蛤御門の変」)により、朝廷から幕府に対し長州藩追討命令が出る、幕府は屋敷近くの米沢藩や土屋采女正、脇坂淡路守の3大名に長州藩屋敷の没収命令を下し、同年7月26日、萩藩毛利家の江戸屋敷・土地を没収。その際に、萩藩毛利下屋敷(麻布龍土町)の屋敷内藩士136名が捕らえられたと言われ、戦闘による死者がないところを見ると本格的な戦いはなく、恭順を示して明け渡したのです。捕らえられた136名は、その後、2年にわたる獄中生活で51名が死亡した。萩藩抱屋敷にあった吉田松陰の墓は、破壊されたが、明治維新後に修復された。萩藩毛利上屋敷は没収の10日後、江戸町奉行指揮の下に多数の町火消しが動員され、全ての建物を解体撤去した。その後、上屋敷内の諸品は幕府により払い下げることになり、江戸市中3000人の道具屋が集まったそうである、道具屋に売却された品物は、後に毛利近親が買い戻しされた。解体には、 延べ3857人の火消しが動員されたという。金具の付いたまま引き倒された木材は、幕府が集めた江戸の湯屋(風呂屋)581軒に売られて、薪になり燃やされたと言われる。また三尺(1メートル以下)の材木は、庶民が自由に持ち帰る事を許したため、屋敷に多くの町人が入り込み持ち去った。また、庭の樹木や庭石も業者に売られた。その金額は千両を越えたという。 他の拝領屋敷も同じであったと考えられる。現在、上屋敷跡地は六本木ヒルズ・毛利庭園となっております。別の資料に拠れば、7000人の火消しを動員して打ち壊したとある。千代田区、昭和35年(1960)同時に破壊された萩藩拝領下屋敷跡は、火除地となり広大な空き地となった。花見の時には14軒の茶屋が出たそうである。切絵図には、毛利藩の名前を消された空き地となっている。その後一時期、茶園として利用され明治政府に引き継がれた。明治6年(1873)、この地は軍用地として東京鎮台歩兵第一連隊の駐屯地となった。現在はミッドタウンとなっている、建築前に詳細な調査がなされ調査報告が刊行された。(『長門長府藩毛利家下屋敷跡・麻布桜田町町屋跡遺跡 発掘調査報告書』2004年 港区遺跡調査事務所)明治維新(1868)後しばらくの間、萩藩毛利家の藩邸はなかったようです。行き違い等々の切はご容赦下さいませ。本所亀沢町6代末孫。
以前、ここにあった弓道場で会社帰りに教えて頂いたのが懐かしい。今は跡形もない。
紅葉が今満開。
大名庭園が大切に残されています。
休憩所が良い感じです静か。
素晴らしい。枯山水、回遊。
名前 |
萩藩毛利家下屋敷跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP | |
評価 |
4.3 |
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東京ミッドタウンの向かい檜町公園内にある日本庭園。周囲のビルの存在を忘れさせてくれるような、草木と池と四阿が素敵な風景で、何度訪れても癒されます。池の周りにある遊歩道には季節毎に様々な花が咲いていたり、もみじも見れたり、流れる水のせせらぎが聞こえ、途中ちょっとしたベンチもあって、一周まわるのに10分もかからない小さなスペースですが、都心で自然を感じられる場所です。池には鴨が泳いでいたりあやめが咲いていたり、とても風流。