東北最古の瓦焼き、歴史に触れる旅。
日の出山瓦窯跡(国指定史跡、奈良時代)の特徴
国指定史跡として残る日の出山瓦窯跡群が魅力です。
東北地方最古の瓦を焼いていた歴史を感じられます。
瓦・須恵器を焼成した窯跡群が6地点確認されています。
「細弁蓮華文軒丸瓦(さいべんれんげもんのきまるかわら)」町内大原地区には、国指定史跡「日の出山瓦窯跡群(ひのでやまがようせきぐん)」があります。この遺跡は、今から約1千3百年前の奈良時代に東北地方を治めた多賀城の役所の屋根瓦を生産した跡です。屋根瓦には、屋根の下から上に向かって順番に重ねていく平瓦と、その平瓦と平瓦のすき間にかぶせる丸瓦があります。そして、その屋根のはじ、軒を飾るのが軒丸瓦です。軒丸瓦には、時代、地域によって様々な模様があり、その模様の違いによって生産された窯が特定できることもあります。さて、日の出山瓦窯跡群の軒丸瓦は2種類あり、その多くは蓮の花をかたどった「重弁蓮華文軒丸瓦」です。しかし、平成3年の発掘調査の結果、それよりももっと手の込んだ模様の細弁蓮華文軒丸瓦が発見されました。この模様は、当時日本の中心だった奈良平城京に見られる瓦とそっくりなことから、当時奈良の瓦職人と色麻の瓦職人との間に技術的な交流があったと考えられます。---------------------「須恵器(すえき)」今から1250年前の奈良時代、大原地区の日の出山では瓦や土器が大量に製産されていました。この時代、日本で焼かれていた主な焼き物には赤い色をした「土師器(はじき)」とネズミ色をした「須恵器(すえき)」がありました。土師器は縄文・弥生時代から続いている焼き物で「素焼き」といって窯を使わないものです。一方の須恵器は朝鮮半島から伝わった技術で「ロクロ」や「窖窯(あながま)」を使って焼かれるものです。この須恵器は窯の中で1,100度以上の高温で焼き上げるので、たき火のように地面に掘った穴の中で焼かれる土師器よりも一度に大量に作ることができ、また大変丈夫なものでした。須恵器の作り方は、①t焼き物に適した粘土を採取し砂などを混ぜてよくこねる②tロクロの上に乗せて形を整える③tへらや糸を使ってロクロから切り離す④tナデ(表面をなめらかにする)・ヘラケズリ(余分なところを削る)⑤t乾燥させてから窯を使って焼き上げるというものです。一番重要なのがこの窯を使っての焼き上げ作業で、酸化還元焔(さんかかんげんえん)焼成法という方法でおこないます。窯の中が高温(1,100度)になった時、焚き口や煙出しの穴をふさいで密閉します。そうすると窯の中では一酸化炭素や水素が発生し、粘土に含まれる酸化第二鉄が酸化第一鉄に化学変化します。その結果、ネズミ色の固い土器ができあがるのです。この時代の食器として大きなウェートを占めていたのが須恵器でした。
いい感じです。
東北地方では最古の瓦を焼いていた窯場の跡らしいです。
鳴瀬川の南に伸びる標高65mほどの日の出山丘陵斜面に築かれた瓦・須恵器を焼成した窯跡群で、A~Fの6地点が確認されており、「日の出山窯跡群」と呼ばれている。史跡に指定されているのはA地点にある7基の地下式窖窯で、うち6基は瓦を主に須恵器も焼いているが、右端にある小規模な1基は須恵器のみを焼いている。瓦には重弁蓮華文軒丸瓦・重弧文軒平瓦・丸瓦・平瓦があり、須恵器の圷や高台付圷は静止糸手法でロクロから切り離される特徴がある。本窯跡群は、奈良時代前半における陸奥国最大の官窯で、その製品は多賀城・多賀城廃寺・大崎市名生館官衙・同伏見廃寺などの城柵・官衙・寺院などに広く供給されており、当時の窯業生産のあり方を解明する上できわめて貴重である。
名前 |
日の出山瓦窯跡(国指定史跡、奈良時代) |
---|---|
ジャンル |
|
住所 |
|
HP |
https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/bunkazai/kuni-siseki18.html |
評価 |
4.1 |
周辺のオススメ

2022年9月17日に見学しました。この周辺だけでも5箇所の窯跡が有ります。昭和44年に発掘調査が行なわれ、7基の穴窯が見付かりました。窯の内部から、多量の瓦や須恵器が出土しました。瓦の様式から8世紀初頭に多賀城や多賀城廃寺等の国家施設に使われた屋根瓦だったことが判明しました。また、瓦に箆で「小田建万呂」「毛」と刻まれたものが出土しました。同じ字が刻まれた瓦が、各地の官衙や附属寺から出土したため、産地と消費地を特定するために重要な資料となっています。日の出山瓦窯は、瓦の一大生産地だったと考えられています。昭和51年に国指定史跡となりました。この地域の河岸段丘を見ると、露頭した崖に灰色の粘土層が散見されます。瓦にする粘土を近くから調達できた立地だったのだろうと推測しています。