歴史の語り部、馬加康胤の首塚。
馬加康胤首塚の特徴
千葉氏一族の馬加康胤の首塚を訪れる歴史探訪の場です。
散歩道では、数十羽のカラスが何かを話し合っている光景が見られます。
監視のための物見台があった場所で、海岸も近い立地です。
入口は県道側(南側)にあります。道祖神社のある反対側(北側)からは立入ることができません。一般の墓を抜けると首塚があります。特に整備されている訳ではなく、暗い雰囲気でちょっとした山のような場所です。すぐ南側の店が並ぶ国道沿いの風景と対象的でした。
駐車場:なし(バス停が目の前。バス利用は便利です)私は、セブンで買い物して停めさせていただきました。首塚は、ちょっと、ぞくっとしました。塚に登る勇気が出ませんでした。
ここは、堂の山と言う小山でスグ下は海岸、房州往還 が通っていて、監視のための物見台(城跡)があった。また、街道沿いに庚申塔、お地蔵様があり幕張宿の北の端であったと思う?急な階段を登って行くと大きな五輪の塔がある。馬加康胤は千葉城を攻め落とし、多古で千葉胤直、胤宣の親子を滅ぼし!千葉宗家は終焉した。これに対して室町幕府は、千葉氏の一族の東常縁に命じ馬加康胤を攻め村田川で討ちとった。ここで、面白いのが! 康胤の首は幕張に 胴は八幡宿にある胴埋塚へ 墓は八幡宿の無量寺ある?
時々、数十羽のカラスが何か話し合ってます。
散歩道。埋立てや武士の時代や幕張の昔の名残を感じられる場所。
古地図を見ると、幕張は「馬加」と書かれている(念のため。「マ・クワリ」と読む。かなで書けば「まくはり」で、近世に表記が変わった)。馬加一族は、15世紀中ごろ、千葉氏宗家に反乱を企ててこれを滅ぼしたが、足利義政の派遣した追討軍に上総国八幡まで追い詰められ、当主康胤が討死して滅亡した。
古地図を見ると、幕張は「馬加」と書かれている(念のため。「マ・クワリ」と読む。かなで書けば「まくはり」で、近世に表記が変わった)。馬加一族は、15世紀中ごろ、千葉氏宗家に反乱を企ててこれを滅ぼしたが、足利義政の派遣した追討軍に上総国八幡まで追い詰められ、当主康胤が討死して滅亡した。
千葉氏一族(馬加康胤)の首塚康胤による内紛により千葉城が落城。千葉氏宗家が滅亡する。康胤当人は内紛に勝利したものの幕府に目をつけられて討たれる。この時に馬加の一族が佐倉に逃れて佐倉城を築城したと言われている。
馬加康胤(まくはりやすたね)の首塚という。幕張1丁目バス停脇階段を上がり、墓地の奥左手に昇る坂の上にある。
名前 |
馬加康胤首塚 |
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ジャンル |
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住所 |
〒262-0032 千葉県千葉市花見川区幕張町1丁目4052 |
評価 |
3.3 |
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千葉の歴史上の人物の首塚がある。特に目立った霊障は感じ取れず!セブンイレブンのそばバス停の所に入り口あり。