歴史を感じる上総国分寺跡へ。
上総国分寺跡の特徴
約1250年前の奈良時代に建てられた国分寺の跡地がある場所です。
養老川沿いの住宅街に残る趣きのある歴史的スポットです。
毎月第四日曜日には骨董市が開催され、歴史を感じることができます。
上総国分寺跡 /現・上総国分寺〒290-0023 千葉県市原市惣社4-10-12養老川沿いの小高い台地の住宅地、約220mX214mの四角形の敷地に、現国分寺と上総国分寺跡が残されている。国分寺が最盛期の頃はここを中心として半径1.5Km位の円内が「上総国分寺」の領内であったろうと考えられる。尚、南170mの所に惣社・戸隠神社が存在する。東関東自動車道・館山線E14/市原IC~国道297号(市原バイパス)~約1.6Km(村上?交差点)で市原市役所・市原市民会館方面へ左折~約1Km(市原市立国分寺台中学校・北角)の交差点を左折~約400mで到着(左に駐車場、右・道向いに上総国分寺)
市原にある上総国分寺跡。建造物はほぼ残っていないが、門などはそのまま。七重の塔は残っていたら圧巻かなぁ。
今からおよそ1280年前の奈良時代、天平の世は災厄や天然痘などの疫病がまん延し、時の聖武天皇は仏教に深く帰依したと言います。平安を願う彼の命により全国に建てられた国分僧寺と国分尼寺のうちの1つが上総国分寺でした。その寺域を見ると後の世に再興された現在の上総国分寺よりはるかに広大だったようです。当時の様子は西門跡や七重塔礎跡から想像するしかありませんが、かつては僧たちが仏の教えについてここで議論を交わしていたのかもしれませんね。
住宅街の中に上総国分寺跡として残されています。当時の建物などは残っていませんが広い土地の中に後に建てられた小さな上総国分寺があります。
上総国総社国府国分寺跡巡りで、五井駅⇒飯香岡八幡宮⇒阿須波神社⇒光善寺⇒群本遺跡群(?)⇒府中日吉神社⇒市原歴史博物館⇒上総国分尼寺跡から当所に。現地は、国分尼寺跡ほど整備はされていないが、国分寺跡の規模と雰囲気、併せて国府推定地、国分尼寺跡、総社(戸隠神社のほう)との距離感を掴むのにいい。
毎月第四日曜日に開催される骨董市に行ってきました。国分寺の名残を残す最高の保存が継承されています。 今日は、此処の『誰でもトイレ』で女性用のショルダーバッグの忘れ物を拾いました。まだ新しい、革製の中々良いものでずっしり重く、置き忘れた方が困っていると思い、国分寺に委細を説明して届けてきました。 失くした方に戻ったかな⁉️
古の雰囲気が漂っています。全国の国分寺の中でと最大規模の七重の塔があったそうです。散策するには申し分無い場所です。
今から1250年以上昔の奈良時代(西暦710年頃〜794年)の中頃に建てられた国立寺院の跡地です😺当時、仏教に帰依をしていた聖武天皇の命により全国で60カ所あまり国分寺と国分尼寺が建てられました。上総国分寺の広さは13.9万平方メートルで東京ドーム約3つ分の広さがあります😺上総国分寺跡は市原市が古代上総の中心地であった事を物語っている貴重な遺構でもあります。発掘調査により国分寺跡には門や回廊塔や講堂の跡があったそう😸写真は国分寺跡の西門と呼ばれる跡で門は調査の結果八脚門である事が判明しました。1993年には柱の位置や規模が理解出来る様に平面的に門の跡を復元。柱の太さは直径約50cmの太さです。復元に際して柱の間にタイルを並べる事で当時の壁の位置を表現しています😸以上が上総国分寺跡と西門に関する私の簡単なレビューです。なお、何点か専門的な用語がありましたので簡単に解説をさせて下さい。● 聖武天皇(しょうむてんのう)初代神武天皇から数えて第45代目の天皇です。西暦724年に聖武天皇は即位をしました。聖武天皇即位後、日本では地震や凶作伝染病など様々な災いが起こっていた。聖武天皇は仏教の教えで世の中の不安を取り除き、国を守ろうと考え全国に国分寺と国分尼寺を作った天皇です。総本山である奈良の東大寺には大きな大仏をつくりました。● 帰依(きえ)神や仏など、優れたものを頼みとしてその力に縋(すが)ること※Wikipediaより抜粋。
千葉県市原市にある国分寺の跡です。ここが古代の上総の中心だったことがわかります。
名前 |
上総国分寺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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HP |
https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/n411-002.html |
評価 |
3.9 |
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薬師堂、仁王門。ギョロ目の仁王と茅葺きの薬師堂が印象的です。だだっ広い敷地内には、まだまだ色々な痕跡が想像出来ます。