慶長九年の一里塚、歴史を感じて。
一里塚は慶長九年(一六〇四)より徳川秀忠の命により各街道に築かれ、同十二年にほぼ完成をみた。秀忠は、永井白元、本多光重等を一里塚奉行に任命して、中山道筋の幕府領、私領をとわず迅速を徴発して道を整備し江戸日本橋を基点として三十六町を一里として、一里ごとに道の両側に一里塚を築かせ、塚の頂上にエノキなどを植えて道程標とし、旅情を慰め、通行の便宜をはかった。その道路幅は五間(九m)塚は五間四方、高さ一丈(二、三m)と定められたが明治以後はその必要もなく、いうとはなく次々に消滅し、県下でも平出のように原形を保つものは極わずかとなった。江戸時代当塩尻市内は、三つの街道にそって、八ヶ所に一里塚が築かれていたが、両塚を残すのは、この平出のみとなってしまった。この一里塚は日本橋の基点より五十九番目のもの、また、宝暦六年(一七五六)頃には、この付近に茶屋二軒のあることがわかっている。 塩尻市教育委員会この一里塚の松は平出の乳松としても知られています。松の葉を服用すると乳の出がよくなると伝えられています。この松は「山本勘助軍艦の松、勘助子育て松」としても知られています。天文14(1545)年、塩尻の桔梗ヶ原で武田晴信(信玄)と小笠原長時が戦った時、山本勘助が戦場で泣き叫ぶ赤子を発見し、松の大木に置いて、戦場に戻りました。戦いが終わった後、その松の所に戻ると、松からしたたり落ちる露で飢えを凌ぎ、赤子は元気だったそうです。現在の松は文久3(1863)年に枯死して以来、数代を経ているそうです。
名前 |
平出一里塚 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
3.9 |
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立派な一里塚が残っています。