秋良貞親子のお墓で心安らぐひとときを。
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名前 |
秋良貞温・秋良貞臣の墓 |
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ジャンル |
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住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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評価 |
4.0 |
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秋良貞温(あきら さだあつ)・秋良貞臣(あきら さだおみ)親子のお墓です。・秋良貞温(あきら さだあつ)文化8年(1811年)阿月(現 柳井市)生まれ。幼名は敦之介(あつのすけ)。明倫館で学び、吉田松陰の父や玉木文之進とも親しくしていました。月性とも交遊が深く、尊王攘夷思想家で海防策を唱えていました。阿月領主 浦靭負(うら ゆきえ)を補佐し、浦家の財政の立て直しに力を注ぎ維新戦力を蓄えました。また、浦靭負が開設した学塾「克己堂」の塾頭になって人材の育成につとめました。維新後は、教部省で諸神社の宮司を務めました。明治23年(1890年)80歳で亡くなりました。・秋良貞臣(あきら さだおみ)天保12年(1841年)生まれ。幼名は雄太郎。11歳で萩の明倫館に入り、儒学、兵学を吉田松陰に学びました。慶応2年(1866年)四境戦争 大島口では、真武隊総督として阿月兵を率いました。維新後は、製塩業の再興に全力をつくしました。明治38年(1905年)65歳で亡くなりました。松原厳島神社境内に「秋良貞臣の彰功碑」があります。