三韓征伐の神功皇后が宿る。
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名前 |
八幡神社(柴) |
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ジャンル |
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住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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HP | |
評価 |
3.0 |
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柴八幡神社(しばはちまんじんじゃ)御祭神 誉田別命境内社 大山祇神社 天満天神社由緒本神社の御祭神は誉田別命で、御母君は三韓征伐で有名な神功皇后です。本殿は大破風流造向拝付杉材屋根板葺で、末社が二社合祀されています。いい伝えによると、この柴八幡神社の創立は、後鳥羽天皇建久年中(1190~1199)といい、鎌倉を中心に各地に建立された八幡社の一つです。明治維新前までは、現在地から西方300mに位置し、数百年を経た松や杉が老樹生い茂り、且つ、八幡免と称する神領が数多くあったと伝えられています。戦前は、武神として武運長久を祈願する出征兵士家族の八幡八社詣で賑わいました。祭礼は、春の日待ちが四月、秋の日待ちが十月に行われています。(「境内案内板」より)埼玉県の「ふるさと歩道」にも指定されている当神社の杜は、老杉が緑豊かなる樹叢を形成していて、散策する人々の憩いの場として親しまれています。鎮座地は村の西外れにありましたが、享保年間(1716~1736)村人の参詣の便に供するために村の中央の現在地に移されました。その跡地は、現在も「元八幡」と呼ばれて大切に保存されています。創建は、社伝によると後鳥羽天皇の御代、建久年間(1190~1199)で、鎌倉の鶴岡八幡宮を本社として、関東各地に建立された八幡社の内の一社であるといわれています。しかし、戦国末期、当地に土着して以来、江戸期を通じて代々名主を務めた信濃国の豪族小笠原氏の後裔「柴家」の存在を考えると、当神社は同家の祀った神社であった可能性もあります。本殿は、朱塗りの一間社流造りで、間口二尺、奥行四尺程のこぢんまりとしたものです。造営は、内陣墨書によると、宝暦三年(1753)三月で、御正領春野原村の大工、長瀬喜兵衛の手により行われました。なお、社蔵の「一万度御抜大麻」には、三日市大夫次郎の名前があることから、当時武蔵国を中心に神札を配布していた伊勢神宮の御師の勢力が当村まで及んでいたことが判ります。明治四年(1871)村社に列格しています。(「埼玉の神社」参照)