無病息災、五穀豊穣の神社!
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名前 |
利田伊奈利神社 |
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ジャンル |
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住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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HP | |
評価 |
3.0 |
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利田伊奈利神社(かがだいなりじんじゃ)御祭神 宇迦御魂命 菅原道眞公境内社 塞神由緒稲荷社 村の鎮守なり 二社共に正福寺持(「新編武蔵風土記稿」参照)当神社の由緒は明らかではないですが、口碑によればここが村の高台に当たり、人々がこの地に無病息災、五穀豊穣の神を祀ったのが始まりであるといわれています。現在、社名は「伊奈利」の字を用いていますが、「風土記稿」では「稲荷社 村の鎮守なり、正福寺持」とあるところから、明治以前は「稲荷」の字を用いていたことが判ります。御祭神は字迦之御魂命で、神明造りの本殿には幣束が納められています。社記によれば、当神社の社殿は、明治三十八年(1905)十二月に全焼した旧社殿の跡に再建されたもので、大正二年(1913)の落成です。焼失した社殿内にあった棟札には「安政六未年(1859)三月再建」とあったといいます。明治五年(1872)に村社となり、同四十年(1907)十一月二十九日に字内郷の天神社を合祀しています。この天神社の社殿は合祀後、しばらくの間正福寺の境内に祀られていましたが、大正の中頃にこの社殿を当神社の境内に移しました。その後、社殿の老朽化が激しくなったため、やむを得ず本社へ合祀し、社殿は空殿のまま境内に残されました。(埼玉県神社庁発行「埼玉の神社」参照)伊奈利神社は、明治期から昭和二十年代かけて養蚕が盛んになり、各地で養蚕講が結成されるようになり、商売繁盛の神として多くの参拝で賑いました。(サイト「行田八幡神社 兼務する神社」参照)「稲荷様の年始まわり」行田市大字利田の主な生業は、米・麦を中心とした農業で、戦前は養蚕も盛んに行なわれていました。その中心となる神社の社名は「伊奈利」と表記され、農家からは豊作の神として、町場の人々からは商売繁盛の神として厚く信仰されてきました。氏子たちは、伊奈利様の使いであるキツネを「オトカ様」と呼び、「オトカ様は犬を恐がるから」といって、昔から犬を飼うことが禁忌とされてきました。また「キツネは獅子に負けてしまうから獅子舞はやってはいけない」とも伝えるなど「伊奈利神社」を身近な存在として大切に祀ってきました。「伊奈利様の年始まわり」は、村の若者が扮した「稲荷様」の一行が氏子の家々を一軒ずつまわり、豊作を祈願して新年の挨拶と厄払いを行う正月行事です。一行は、「シオフリ」と称する榊の幣束を持った人を先頭にして、「稲荷」「白狐」「天狗」「オカメ」「ヒョットコ」の面を付けた六人が、縁側から家中を歩き回ってお祓いを行い、家族のお祓いを終えると縁側から帰って行くのですが、家の人たちは縁側で一行を迎えると同時に玄関に出て、一行の後に付いてきた村人一同と挨拶を交わさなければいけないため、忙しくしているうちにどさくさに紛れて祓いを受けている感のある行事です。また、一行の中の「ヒョットコ」は、スリンボという男根状の棒を持ち、婦人に押し付けると安産のまじないになるといい、嘗ては若い嫁には必ずこれに触れさせて、安産を祈願していました。「稲荷様の年始まわり」は、村を一巡することで村中の様子や各家庭の生活ぶりがわかり、お互いの状況を理解して、生業だけでなく、村の社会生活や運営を潤滑に行なうことに繋がり、お互い助け合って生きてきた地域の方々の知恵を感じさせる行事です。(サイト「さきたま史跡の博物館 稲荷様の年始まわり」参照)