松尾芭蕉の句碑と鶴仙渓の美。
名前 |
芭蕉句碑加賀山中温泉平岩橋(西詰欄干碑) |
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ジャンル |
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住所 |
〒922-0128 石川県加賀市山中温泉こおろぎ町イ120−1 |
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評価 |
4.0 |
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山中温泉の鶴仙渓(かくせんけい)に架かる平岩橋(ひらいわばし)の西詰には、江戸時代の俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)の句碑が静かに建っている。この碑には芭蕉が山中で詠んだと伝わる句『漁火(いさりび)に 河鹿(かじか)や波の下むせび』が刻まれている。芭蕉が山中温泉を訪れたのは元禄2年(1689)7月27日のこと。俳諧紀行『おくのほそ道』の旅の途中で、弟子の河合曾良(かわいそら)と共に約5か月の長旅を続けてきた芭蕉にとって、山中温泉は格別な場所だったようだ。旅の疲れを癒すためにここで8泊9日という長い逗留をしたほどで、「扶桑三名湯(ふそうさんめいとう)」と呼び、有馬や草津に並ぶ名湯として称賛している。芭蕉は滞在中の心情を『山中や 菊は手折らじ 湯の匂ひ』という句に残した。この句は菊の花を手折る必要もないほど湯の香りが良い、という意味で、現在の総湯「菊の湯」の名前の由来にもなっている。また、山中温泉は芭蕉にとって大切な旅の節目となった地でもある。芭蕉と同行してきた弟子・曾良は、山中で体調を崩し、この地で旅から離脱する決断をした。元禄2年8月5日、芭蕉と曾良はそれぞれ別れの句を交わした。曾良は『行行(ゆきゆき)て たふれ伏すとも 萩の原』という句で、自らの覚悟を示し、芭蕉は『今日よりや 書付(かきつけ)消さん 笠の露』と詠んで曾良との別れを惜しんだ。二人が笠に記していた「同行二人(どうぎょうににん)」の言葉をここで消そうとまで詠ったほど、芭蕉にとって曾良との別離は寂しいものだったに違いない。さて、この平岩橋西詰に建つ句碑に刻まれた『漁火に 河鹿や波の 下むせび』という句だが、実は『おくのほそ道』本編には収録されていない句である。句の情景は、大聖寺川(だいしょうじがわ)の夜の景色だ。漁師が焚く篝火(かがりび)に照らされた川面に、河鹿(カエルの一種)の細く哀しげな声が波音に混じって響いている様子を描いている。河鹿のか細い鳴き声を「波の下むせび」という巧みな表現で捉えた芭蕉の鋭敏な感性が感じられる句だ。この句は、山中温泉の十景として知られていた夜の川漁「高瀬の漁火」を題材にしたものである。当時芭蕉が宿泊した「泉屋(いずみや)」の主人であり、地元の俳人だった桃妖(とうよう)から山中の景勝について教えを受け、芭蕉がそれを題に即興で詠んだと伝えられている。この句は芭蕉の弟子・曾良が記した『曾良旅日記』には記録されておらず、口伝で伝えられてきた句だが、江戸時代後期の俳書『芭蕉翁発句集』に収録されるなどして、広く知られるようになった。現在あるこの句碑は、明治31年(1898)に建立されたものだ。鶴仙渓の入り口にあたる平岩橋の西側に位置し、当時の有志らが芭蕉の功績を讃え、この句を刻んだとされる。平岩橋の反対側には近代俳句の巨匠・水原秋桜子(みずはらしゅうおうし)の句碑もあり、芭蕉句碑と対をなすように建立されている。山中温泉は時代を超えて数多くの俳人に愛されてきたことが窺える。さらに鶴仙渓を散策していくと、山中温泉を代表するもう一つの芭蕉句碑『山中や 菊は手折らじ 湯の匂ひ』が文久元年(1861)に建立されており、2015年には周辺の景観とともに「おくのほそ道の風景地」として国名勝に指定されている。また、渓谷沿いには明治43年(1910)に建てられた芭蕉を祀る「芭蕉堂」もあり、当時の俳人たちが芭蕉を深く慕ったことが伝わる。この芭蕉堂周辺では現在でも毎年9月に「芭蕉祭」が催されている。温泉街の入り口近くには、芭蕉と曾良の別れを示す句碑も建てられており、まさに山中温泉一帯は芭蕉ゆかりの地が連なり、『おくのほそ道』の旅情を色濃く感じさせる土地となっている。平岩橋西詰の芭蕉句碑は、山中温泉という地に刻まれた芭蕉の足跡と、その鋭敏な感性が感じられる一句を現代に伝える貴重な史跡だ。芭蕉がここで得た安らぎと哀愁、その両方をこの地で感じ取ることができるだろう。