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加賀市の山中温泉には、温泉街の裏山に隠れるようにして「山中城跡」が残っている。山中温泉といえば松尾芭蕉の『奥の細道』にも登場するほど有名な温泉地だが、その賑わいのすぐ背後にひっそりと眠る戦国の史跡だ。山中城が築かれた時代や経緯については詳しいことは不明だが、一説によると建武2年(1335年)、長九郎左衛門盛綱(ちょうくろうざえもんもりつな)という武士がこの地に立て籠もったという伝承が残る。現地に立ってみれば、その険しい地形から、ここが自然の要塞だったことがすぐに分かる。尾根筋を巧みに利用した小規模な城だが、山頂部には明確な曲輪跡があり、土塁や空堀もしっかりと残っている。室町時代以降、この地域は一向一揆の勢力が強くなり、山中城も加賀一向一揆の重要な拠点となった。加賀の一向一揆といえば全国的にも有名な民衆蜂起だが、この城もまさにその歴史の舞台の一つだったわけだ。そんな山中城に大きな歴史のうねりが押し寄せたのが、織田信長の加賀侵攻だ。天正8年(1580年)、信長の命を受けた柴田勝家が加賀に攻め込んできたとき、ここ山中城にも戦火が及んだ。このとき城を守っていたのが、一揆方の有力者である岸田常徳(きしだじょうとく)らだ。勝家は城を攻略するため、水無山(みなしやま)に付城を築いて山中城を攻撃。同時に近隣の山中黒谷城(やまなかくろたにじょう)にも攻撃を仕掛けている。この戦いは激しく、黒谷城は5日間の戦闘で陥落したと伝わる。当然、山中城もほどなく落城し、一向一揆勢力の終焉につながった。この合戦は加賀一向一揆の終わりを告げる戦いでもあった。その後の歴史も興味深い。柴田勝家が敗れ、加賀は豊臣秀吉の支配下に入り、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いのあと、前田利家(まえだとしいえ)が秀吉から加賀のうち二郡を与えられて金沢城に入り、この一帯は前田家の領地となる。山中城自体は役目を終えて廃城となったが、その後も加賀藩前田家が支配する時代が続き、山中温泉は前田家の庇護のもと発展した。ところで、この城跡のふもとに広がる山中温泉には、もっと古い歴史が眠っている。温泉の発見はなんと奈良時代、約1300年前に高僧・行基(ぎょうき)が巡錫中に発見したという伝説があるほど古い。江戸時代には『奥の細道』で知られる俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)が訪れ、元禄2年(1689年)7月27日から9日間も滞在した。その時、芭蕉が詠んだのが有名な「山中や 菊は手折らじ 湯の匂ひ」という句だ。山中城跡を訪れた際には、ぜひこの芭蕉ゆかりの温泉街の歴史も併せて感じてほしい。現在の山中城跡は、観光地化されていない素朴な史跡だが、それだけに当時の面影が強く残っている。曲輪や空堀を実際に歩いてみれば、柴田勝家が率いた兵たちと、一揆方が激しく争った往時の情景がリアルに浮かび上がってくるようだ。また、城跡周辺には同時期の山城群が集中しているため、あわせて山中黒谷城や柴田の付城跡などをめぐれば、戦国時代の山岳戦の臨場感をさらに深く味わうことができる。山中城跡を語るとき、必ず出てくる柴田勝家や前田利家、松尾芭蕉ら歴史上の有名人だけでなく、ここには激しい動乱の時代を必死に生き抜いた無名の人々の息づかいも感じられる。華やかな観光地の影にある、静かな、けれども濃厚な戦国の歴史を知るには最適な場所だろう。城跡自体は決して派手ではないが、歴史を楽しむのに派手さは必要ない。ここには、歴史の重さと本物だけが持つ静かな魅力がある。じっくり時間をとって、周囲の歴史的な繋がりを楽しみながら訪れてみるのをおすすめしたい。戦国の足跡を静かに伝える山中城跡は、華やかな温泉街に隠れながらも、訪れる者に鮮やかな歴史を見せてくれる。