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加賀国の山中にひっそりと残る大杉谷円光寺跡は、室町時代中期に本願寺の内紛で都を追われた蓮照応玄が開いたとされる古跡であり、今も静寂の中に歴史の重みを感じさせる。応玄は、本願寺第七世存如の長子蓮如と継母如円尼の子として生まれた。父の没後、如円は実子の応玄を後継とすべく周囲の門徒や寺院に働きかけたが、最終的には蓮如が第八世に就くこととなり、如円と応玄は京都を逐われる。彼らは本願寺に伝わる聖教や仏具の一部を携えて都を離れ、北陸の加賀国へと落ち延びた。道中、加賀国内の津波倉本蓮寺に一時逗留したとも伝えられ、やがて山深い大杉谷の地に辿り着く。当地には既に念仏を信仰する門徒が存在していたとされ、応玄はその庇護を受けて、長禄3年(1459)に古堂を改修し、円光院と称する道場を開いた。これが後の円光寺の起源である。創建当初、寺は大杉みどりの里(旧少年自然の家)背後の丘に所在し、すでに廃絶していた天台宗系の旧堂を流用したと伝わる。この円光院が開かれた地が、現在「大杉谷円光寺跡」や「大杉円光寺跡」と呼ばれる史跡である。時代とともに寺号は「円光寺」と改められ、後に下大杉の集落近くへ、さらに昭和後期には市街地寄りの千木野町へと移転を重ねていった。現在の円光寺は真宗大谷派に属し、小松市千木野町ヲ132-1に本堂を構える。一方、創建の地である大杉谷円光寺跡には伽藍の遺構こそ残らないものの、小丘上には「大杉谷円光寺跡」と刻まれた石碑が立ち、参道の石段や平坦な区画が往時を偲ばせる。史跡は里山自然学校「大杉みどりの里」(小松市大杉町イ98)から山側に100メートルほど進んだ場所にあり、入口には「蓮如上人お杖の名泉参道」と記された標柱が設置されている。この標柱は、大杉地域に伝わる伝承に由来する。伝承によれば、かつて大杉谷に風貌の冴えない旅僧が現れ、水を乞うたが下村の住人はそれを拒み、隣の中村では丁重にもてなした。僧は礼として中村の地を杖で突き、そこから清水が湧いたという。後に僧は再び杖で山中を突き、今度は山腹から水が湧き出した。以来、この水は涸れることなく湧き続けており、「お杖の名泉」として親しまれている。旅僧は蓮如の化身であったと伝えられ、この話は大杉谷の住民の信仰心と教えに対する敬意を象徴する逸話として語り継がれている。また、大杉にはもう一つの伝承が残る。それは「名号岩」にまつわるものである。かつて下大杉集落で大火が発生し、円光寺も焼失した際、親鸞聖人自筆とされる聖教の一部が火の粉に乗って舞い上がり、ある大岩の上に落ちた。村人はこの岩を聖典の降臨した霊石として崇め、穴を穿って地蔵を祀った。これが名号岩と呼ばれる由来であり、現在もその岩は小堂に収められ、村人により大切に守られている。周辺には他にも宗教的意義を持つ史跡が多い。那谷寺は加賀国における白山信仰の拠点として知られ、南北朝期から中世にかけて隆盛を極めた。白山禅定道の一部として大杉谷を通る修験の道が存在していたとされ、大杉は那谷寺と白山を結ぶ巡礼ルート上に位置していた可能性がある。中世末期、那谷寺は一向宗との対立や戦乱によって荒廃し、江戸時代に前田利常の手で再興された。今日では本堂や三重塔などが国の重要文化財、庭園が国名勝に指定されている。こうした歴史的背景の中で、円光院(円光寺)は白山信仰圏における旧勢力の退潮と、新たな宗教勢力である浄土真宗の浸透という時代の転換点に生まれた寺であった。加賀一向一揆が勃発する以前、応玄が開いた道場が山間部において信仰の灯火をともしたことは、後の宗教地勢に小さくない影響を及ぼしたと考えられる。現在、円光寺跡には特段の建築物は存在しないが、石碑と僅かな地形の痕跡が残るのみである。史跡としての公的指定はないものの、地元では信仰と歴史を伝える大切な場所とされており、参道の整備や清水の保全なども行われている。訪れる者にとっては、静寂とともに時代の記憶を感じることができる貴重な空間である。また、大杉地域には大杉神社やチャボガヤの自生地など、市指定の天然記念物もあり、自然と信仰が調和した文化的景観が広がる。大杉神社境内のイチョウは推定樹齢400年以上とされ、今も地域の象徴として人々に親しまれている。このように、大杉谷円光寺跡は一見すると目立たない小さな遺跡ではあるが、そこには本願寺の血脈争いに端を発する歴史、白山信仰から一向宗への宗教的転換、そして人々の信仰と生活の重なりが凝縮されている。静かな杉林の中に佇むこの場所には、600年の時を超えてなお語りかけてくるような、重みと静謐さがある。