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名前 |
塔尾超勝寺跡 |
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ジャンル |
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住所 |
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評価 |
4.0 |
塔尾超勝寺跡(とうのおちょうしょうじあと)は、かつて加賀南部の一向一揆をリードした重要寺院の跡地だ。もとは越前国の藤島(現在の福井市藤島)に頓円という僧が開いた浄土真宗本願寺派の超勝寺が始まりだったが、戦国期の戦乱に巻き込まれ、永正3年(1506年)に朝倉氏との戦いに敗れて越前を追われてしまう。その時、第五代住持の実顕(じっけん)が弟子たちとともに越前を離れ、加賀の塔尾に移って再建したのが、この塔尾超勝寺だった。加賀に移ってからの超勝寺は、急速に影響力を強めていく。南加賀一帯ではもともと山田光教寺(やまだこうきょうじ)や波佐谷松岡寺(はさだにしょうこうじ)、若松本泉寺(わかまつほんせんじ)という大寺院(通称「賀州三ヶ寺」)が勢力を持っていたが、享禄4年(1531年)に超勝寺はこれらの勢力と争い、大きな戦乱となった。この戦いを制した超勝寺は南加賀の実質的な覇権を握り、南部地域における一向宗勢力の中核となったというわけだ。しかし戦国時代の勢力図は目まぐるしく変わるもので、超勝寺の南加賀支配も永遠には続かなかった。永禄10年(1567年)、加賀一向一揆が越前の朝倉氏と和睦を結んだことで、超勝寺は加賀での役目を終え、本来の拠点だった越前藤島へ帰還することになる。その後の超勝寺は越前の寺院として再興されるが、塔尾の寺域は徐々に廃れ、やがて人々から忘れ去られてしまった。今、塔尾超勝寺跡を訪れると、当時の寺院というよりもむしろ山城跡のような印象を強く受ける。実際、この地には戦闘を意識した防御施設の痕跡が数多く残されていて、主に土塁や空堀、曲輪跡が確認されている。これらは単なる寺院としての超勝寺ではなく、戦乱の中で城郭化した寺院の姿をよく伝える貴重な史跡と言えるだろう。塔尾超勝寺跡自体には伝説的な逸話や神秘的な言い伝えはないが、その歴史的意義は明らかだ。この寺が移転してくる以前の南加賀地域は、それぞれの地域に根差した地元寺院が力を持っていたが、超勝寺の登場により、地域の権力構造や社会情勢が大きく揺らぐことになる。その影響は、後の加賀一向一揆の展開にも深く結びついている。さらに面白いのは、塔尾超勝寺跡の周辺地域にも、一向一揆に関連する寺院や城郭跡が点在していることだ。山田光教寺跡(現・光闡坊)や波佐谷松岡寺跡、若松本泉寺跡など、どれもが加賀一向一揆を理解する上で欠かせないスポットとなっている。また山中温泉近くの赤岩城跡も注目だ。この城は一揆勢力と関係の深い武将・藤丸新介勝俊が築いた城郭で、当時の加賀の政治的な混乱ぶりをリアルに伝えてくれる。これら史跡を巡ることで、塔尾超勝寺という寺院がどのような歴史的な役割を担っていたのか、より立体的に見えてくるに違いない。現地は地味な印象で、一見すると何もない丘陵地のようにも感じるかもしれない。しかし、注意深く歩くとあちこちに防御施設の痕跡を見出すことができ、かつてここで戦いがあったことがリアルに伝わってくる。観光地化されていないぶん、当時の面影を純粋な状態で感じられるのもこの史跡の魅力だ。塔尾超勝寺跡は、単なる一寺院跡という枠を超えて、中世の宗教戦争がどれほど熾烈で複雑だったかを今に伝えてくれる、貴重な遺産だ。史実に興味がある人はもちろん、戦国時代のリアルな痕跡を肌で感じたい人にとっても、非常に興味深い史跡だろう。