安中市の歴史が感じられる史跡探訪。
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| 名前 |
山田三川の墓 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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安中市指定史跡。説明文を抜粋します。三川は号で、名は飛、通称は三郎と言う。文化元年(1804年)伊勢国三重郡平尾村(三重県四日市市平尾村)の医師山田孝純の子として出生。文政八年(1825年)江戸に出て昌平坂学問所(東京大学の前身)に学び、天保9年(1838年)松前藩に採用されるが、嘉永元年(1848年)職を失い隠棲したところ、水戸藩主徳川斉昭の知るところになり、斉昭の紹介で安中藩主板倉勝明に仕えることになる。儒教役として藩校造士館の教授を務める一方、藩の大目付見習い。御金奉行、養育奉行等歴任。安政四年に郡奉行となるが、文久二年(1862年)に亡くなった。新島七五三太(後の新島襄)に箱館(現在の函館)の存在を教えたのは三川だと言われている。後に新島襄は、函館港から出国して米国に向うこととなる。つくづく人間の運命はわからないと思います。山田三川が徳川斉昭の紹介で安中藩の役人に仕えていなかったなら、新島襄が米国に行くのが遅くなっていた可能性があるわけですね。人知れず、歴史の大きな流れの中で大きな働きをすることになるわけですね。まあ、凡人はそんな事ありませんね。安中藩なんて田舎の小さな藩だと思っていましたが、まんざらでも無いか?そんなこと思いました。