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飛越地震の碑は、宮川町丸山という静かな山あいにひっそりと立つ石碑だ。この碑が語る安政5年(1858年)に起きた安政飛越地震は、推定マグニチュード7.0~7.1の内陸型地震で、震源は跡津川断層(あとつがわだんそう)という活断層。岐阜県飛騨地方から富山県越中地方にかけて激しい揺れが広がり、大きな被害をもたらした。特に被害が集中したのは、この碑が立つ丸山集落だ。集落を流れる宮川沿いには「長とら」という高さ数十メートルの巨大な断崖があり、地震によってこの崖が一瞬で崩壊。大量の岩や土砂が家々を飲み込み、51人の住民のうち26人が即死するという悲劇を引き起こした。集落の家屋は7戸中4戸が全壊、2戸が半壊し、一家全員が犠牲になった家もあったという。さらに崩れた土砂が川を埋め尽くし、小規模な天然ダムまで形成してしまった。この災害は地元では「長とら崩れ」として語り継がれている。地震の被害は丸山だけにとどまらず、飛騨北部の多くの村で甚大な被害をもたらした。飛騨市河合町では全98戸のうち77戸が倒壊、荒町地区では9戸が土砂で一瞬に埋まり53人もの命が奪われた。こうした惨状を後世に伝えるために、各地に慰霊碑が建てられているが、その一つが昭和29年に建立された丸山集落のこの碑だ。犠牲者の遺族たちが、再び同じ悲劇が起きないことを願い、この碑を建てたという。富山県側にも被害は及び、立山連峰の山々で山体崩壊が起きた。特に鳶山(とんびやま)が大崩壊した「鳶崩れ(とびくずれ)」によって立山カルデラに大量の土砂が流入。天然ダムを形成した後に決壊し、大洪水が常願寺川を下り、富山平野の村々を壊滅させた。この洪水で約150人が死亡、1600棟以上の家屋が流出するなど、富山平野にも深刻な被害を与えた。地震後の飛騨地方では、幕府の出先機関であった高山陣屋が迅速に対応。備蓄米や金銭を各地に配り、高山の住民たちも救援活動に積極的に参加した。越中側の富山藩でも復興作業に追われ、以降、常願寺川は洪水を繰り返す「天井川」となり、砂防工事が重要な課題になった。地域では災害の記憶を風化させないため、各所に石碑や伝承碑が設置されている。丸山の碑をはじめ、河合町の慰霊碑、富山県の「大場の大転石」など、災害の歴史を伝える貴重な史跡が今も残る。また、飛騨地方には「地震の夜に山から火の玉が落ちた」「杉原の鱒という名所が地震で消えた」などの伝承も残されている。丸山の飛越地震の碑は目立たない場所にあるが、その存在感は重く、今も静かに大地震の恐怖と地域の悲劇を語りかけてくる。この碑を訪れることで、過去の災害から何を学び、どう生きるべきかを考える機会になるはずだ。