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長嶺(ながみね)は、石川県小松市の瀬領(せりょう)町から木場(きば)町を結ぶ約4kmの古道だ。別名「木場道(きばみち)」とも呼ばれ、江戸時代から明治期にかけて、山間部の村々で作られた薪や炭、木材を木場潟(こばがた)方面に運び出す重要な物流路として使われていた。そもそも長嶺は、奥山に点在する大杉谷の十ヵ村で生産された木材や薪炭を人や馬が背負って運び出し、木場潟から舟運を使って安宅(あたか)や小松方面へ出荷していた流通の拠点だった。いまの感覚からすれば山道を背負って木材を運ぶのはかなり厳しいが、当時としては欠かせない生活路であり、地域経済を支える大動脈だったわけだ。だが、実際にこの道を歩いてみるとよく分かるが、道中には厳しい坂道や谷間が続いていて、特に雨の日などはひどくぬかるんだという。当時の記録によれば、荷馬が深く泥に埋まり、時には進めなくなることさえあったそうだ。そんな厳しい状況を改善しようと、江戸末期から明治の初期にかけて、この地域に住んでいた村中弥平(むらなかやへい)という男が立ち上がった。村人たちの苦労を見かねて、弥平は私財をなげうち、瀬領の山で採れる丈夫な切石を数百個も使って石畳を整備した。このおかげで、村人たちは泥濘に足を取られず、安全に木材を運べるようになったという。現在でも、弥平が整備したこの石畳の一部が残っていて、その功績を伝える顕彰碑も赤瀬ダム上流の公園に建てられている。2000年代に入ると、地元有志たちがこの古道の価値に改めて注目した。2004年には、物流拠点として使われた木場潟のほとりに舟小屋が復元され、翌2005年には長嶺の石畳も復旧工事が行われている。さらに2006年からは地元ボランティアで「長嶺石畳整備隊」が結成され、昔の物流ルートとしての古道を整備・保全する取り組みが今も続けられている。地域の歴史を次世代に継承するために地道な努力が続けられているわけだ。当時の物流の流れを振り返ると、村人たちが背負子や馬で運び出した木材や薪炭は、この長嶺を通って木場潟へと降ろされた。木場潟からは舟で安宅や小松の市街地へ運ばれ、そこから加賀藩内各地へ流通していった。つまり、長嶺は山の資源と湖畔の舟運を結びつける重要な物流ルートの一端を担っていたというわけだ。木場潟周辺には歴史的な遺構も多い。特に湖の東岸丘陵地帯には古墳群や寺社跡が多く点在し、かつての物流ルートだけではなく、さらに古い時代の文化や歴史にも触れることができるエリアとなっている。こうした史実に触れると、当時の地域の人々がどれほど懸命に暮らしを営んでいたかを肌で感じることができる。村中弥平のように、公共の利益のため私財を投じた先人の姿勢もまた、現代の我々にとっては尊敬に値するものだろう。今のように便利な道路やインフラがなかった時代に、山間部で暮らす人々がどれほどの苦労を抱えながら生きてきたかを、こうした史跡から感じ取れることは、実に意味深い。また、整備された石畳や舟小屋の復元などの取り組みを通じて、地域が自らの歴史を見つめ直し、保存していく意識が高まっているのも頼もしいことだ。古い道というのはただの道路ではなく、そこを通った無数の人々の暮らしや、そこに込められた願いや工夫、努力の記憶が刻まれている場所だ。長嶺という古道も、まさにそんな場所の一つだろう。長嶺の古道は、単に歴史的な遺物ではなく、かつてこの地域がどのように発展し、どのような苦労を重ねて現在に至ったかを伝える生きた遺産だ。だからこそ、地域の有志たちがこの道を守り、語り継いでいる活動は非常に貴重であり、これからもぜひ継続していってほしいと強く思う。訪れる人は、ぜひそうした先人の知恵や苦労、そして現代に受け継がれた地域の想いを感じ取りながら、この古道を歩いてみることをおすすめしたい。長嶺の石畳を歩けば、確かにそこにはかつての暮らしや文化の息吹が残っていることが実感できるに違いない。