金原渓谷の薬師如来、歴史を感じる。
スポンサードリンク
スポンサードリンク
スポンサードリンク
| 名前 |
薬師堂 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
5.0 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
スポンサードリンク
周辺のオススメ
スポンサードリンク
スポンサードリンク
スポンサードリンク
本尊 薬師如来(坐像高さ30cm)創立年月は不詳、考証すると、東入の金原渓谷に天文年中(1540)尽念坊位大僧都法師と薬師の碑がある。また慶長16年(1611)と元和10年(1624)の成沢水系の堰止めの古文書に、この薬師堂の名があることから、およそ450年前には、堂・仏像を中心にして講集団が形成され、維持されたであろう。今から310余年前の宝永3年(1706)上田藩明細書に、薬師堂「縦7間横10間雑木立村中」とあり、これ以前に建立された事は事実である。昭和52年(1977)3月解体の際、天井の梁に「文化5 年(1808)村中施主再住大長和尚、世話人武舍藤左ヱ門、大工同用田中治右衛門・同武舍忠右衛門・栗林村小林彦兵衛作」とあり、薬師如来の台座には、「文化9年(1812)5月薬師尊大仏法福本」とあるので、この時に改築か再建されたであろう。その後明細がないが、天保の大風水で大破損し、天保12年(1841)薬師堂再建十方万人講として、東信地区一円5,733名から寄付を集めて再建された。安政7年(1860)上青木龍洞院奉納帳に、堂主即身は高井郡高井野村(現在の上高井郡高山村)坂田氏なりとある。明治5年(1873)に神仏分離令により廃主処分をうけ、その後は天神講・集会所・作業場として利用され、慰労会や寸劇等が行われた。昭和30年(1955)4月、新しい公民館が完成して廃堂となって、しばらくして再建し保存しようと村の話題になり、昭和52年4月、武舍秀雄氏が寄進中興して再び明るい光が放つようになった。石段の右側に石像「如意輪観音」高さ1.3m、元文元年(1736)銘がある。左側には「庚申塔」高さ1m、幅32cm、厚さ27cmの角柱状がある。堂の右奥に「地蔵菩薩立像」高さ60cm、寛政12年(1800)10月19日の建立である。その奥に墓碑と五輪塔が数多く集められ、無縁仏である。宝永3年(1706)・寛保2年(1742)の大洪水による死者の墓碑などもある。