太田集落の城跡、見どころ満載!
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| 名前 |
太田城跡 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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太田集落の乗る丘陵の広範囲が城跡で、集落内に断片的に土塁や空堀が残っており、とても見どころのある城跡です。城域は西は龍昌院西の墓地のところにある土塁・空堀、東は「首打口(しゅうちぐち)」と言われる場所で、東西道が南にクランクしている所までになります。集落内の土塁・空堀は断片的ながら、すぐに分かる形です。龍昌院の他は、東西道の南側に道に沿って断片的に続くもの。また、中央北側の個人宅の敷地を囲うように残るものがわかりやすいです。一部、薮の中や完全に私有地の奥にありそうなものなどは確認していません。各種城郭図を参考に、住民の方の迷惑にならないように回りたいものです。南側の愛宕神社のところは、集落丘陵から独立した丘陵になってますが、ここも土塁が囲繞しています。南の出丸的な郭だと思われます。城は下妻の多賀谷重経が築いて家臣赤松常範を配したことに始まるようです。その後、秀吉の北条攻めで秀吉に従った多賀谷重常は、秀吉より結城氏の与力となるよう命じられます。これに不服だった多賀谷重常は嫡男虎千代(後の三経)を太田城北の和歌城に入れて結城氏に従わせて体裁を整えると、自らは下妻に残って佐竹氏に従いました。ここに多賀谷氏は下妻多賀谷氏と、三経の太田多賀谷氏に分家することとなります。三経の多賀谷氏が太田多賀谷氏と呼ばれるのは、和歌城からすぐにこの太田城に移ったことによります。築城も、三経入城に際して本格的に行われたようで、龍昌院も三経により豊田村(石下町)より移築されたようです。関ヶ原合戦後、結城氏の越前転封に伴い、三経も越前に移封され、廃城となったようです。