草鞋奉納のある特別な体験。
スポンサードリンク
スポンサードリンク
スポンサードリンク
| 名前 |
森権平の墓 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
|
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
スポンサードリンク
周辺のオススメ
スポンサードリンク
スポンサードリンク
スポンサードリンク
たくさんの草鞋[わらじ]が奉納されています。庚申堂があり、青面金剛の石像が安置されています。以下、『白鳥町風土記』から引用です。ーーp.83◎仙石権平久村の墓 [略]五輪塔 高さ1.33メートル、台共1・73メートル天正12年7月19日月山宗□□□法号月山宗薫として著名であるが、墓の「薫」字は風化して読み取れない。 [略]p.84〜85『三代物語』に、「渡瀬平次兵衛曰く、権平戦死の所は、今の伊座新池の内なり」と見え、『讃岐府志』にも、「戦場は今の新池の所なり、古道の大原口なり」とあり、口碑も権平の墓は、もと新池の附近にあったと伝えられている。[略]従って、墓は当初、戦死の地にあったが、新池の築造に当たり移されたものであろう。p.85『三代物語』は、「阿州椿泊森甚五兵衛、由縁の由、引田浦日下佐左衛門、甚五兵衛と古き縁座によりて、久村年忌、日下氏にて執行、森氏より使者来る。導師千光寺。仙石権平墓、人馬とともに足患い、祈願信心あれば、たちまち平癒す。よって日増しに之を参詣し甚だしげし」としている。[略]p.87〜88『三代物語』(抜粋)「閭里相伝う、僧有り夜これを過ぎて曰く、これ何者の墓となすやと。墓中に声有りて曰く、これ仙石権平戦死の所なりと。僧すなわち異を嘆じ読経回向し、遂に近里に舎り卒塔婆を墓に立つ。又僧有り、夜過ぐるに一丈夫有り、甲冑を擐[つらぬ]きて騎馬し、僧を見て言って曰く、あえて師に願うと。僧曰く、子誰となすやと。いまだ答えずこれを見れば、すなわち墓なり。僧これを怪しみて明日往きてこれを見るに、書して曰く、仙石権平十八歳、紅鴾毛[つきげ]の馬に乗ると、僧いう。必らずこの故なりと。改めて紅梅鴾毛の馬と作る。この夕、僧の夢に辱くも太恩を荷う、あえて謝すと。又人有り、短冊をその墓に貼[は]りて曰く武夫の二度のかけして権平は陣の引田に名のみ残しつ武夫の二度のかけして名を揚げて引田中山 いざと定むる◎庚申堂、権平墓の隣青面金剛石像、小堂内安置三目四臂にして矢や剣を持ち、悪鬼を踏まえ、三猿や雞なども配されている。