心に残る戦国の跡、八乙女山砦へ。
| 名前 |
八乙女山砦 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| HP |
https://culture-archives.city.nanto.toyama.jp/culture/bunkazai/bunkazai0181/ |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
|
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八乙女山砦(やおとめやまとりで)は、富山県南砺市井波の山深くに眠る、戦国時代の面影を今に伝える歴史ある砦跡だ。八乙女山の山頂付近に築かれたこの砦は、地元でも知る人ぞ知る存在で、現在は深い杉林に覆われひっそりと佇んでいる。八乙女山砦が歴史の表舞台に姿を見せたのは戦国時代の頃だが、はっきりとした築城年代や城主についての記録は残されていない。ただ、当時の越中の南部地域では、浄土真宗(一向宗)の教えが広く浸透し、信仰の拡大と共に一向一揆と呼ばれる宗教勢力が台頭していた。そのため、この砦も一向一揆の人々が、敵の侵入を防ぐ目的で築いたと考えられている。当時の砦としては非常に理にかなった造りをしていて、山頂の尾根の最高地点を主郭とし、周囲には大きな切岸(きりぎし)や堀切(ほりきり)が巧みに施されている。特に主郭南側の高さ約7.5メートルの切岸は、敵の侵攻を妨げるために人工的に削られたもので、当時の守備側の苦労が伝わってくる。また、西側の山腹には「天池(てんち)」という池があり、籠城の際の重要な水源だったと言われている。砺波平野を一望できるこの砦は、物見台としても非常に重要で、特に井波の中心地にある瑞泉寺の大伽藍がはっきり見渡せる。瑞泉寺は当時、越中一帯の真宗の中心地であり、信仰の拠点でもあったことから、この地域の守備や情報伝達に大きな役割を果たしたとされる。八乙女山砦を取り巻く戦乱のエピソードとしては、石黒氏と一向一揆勢力が織田信長配下の佐々成政らの軍勢と激しく争った逸話が伝わっている。石黒氏は砺波地域の有力豪族だったが、佐々成政らとの戦いに敗れ、一族は砦に立てこもり激しい抵抗を続けた。特に1581年から翌年にかけて繰り広げられた攻防戦では、石黒氏の残党が五箇山地域の山々に籠り、佐々軍と激しい戦闘を繰り返したという記録が残されている。八乙女山砦も、このような抵抗の舞台の一つであった可能性が高いとされている。戦乱の記憶が薄れた江戸時代以降、八乙女山砦は次第に歴史の中で忘れ去られていったが、地元ではこの山にまつわる神秘的な伝承が受け継がれている。その代表的なものが山頂近くにある「風穴(かざあな)」にまつわる話だ。伝説では奈良時代、越前の名僧・泰澄大師がこの地を訪れ、荒ぶる風神を鎮めるために祠を建てたことが始まりだとされる。その後、戦国時代に入り、この封印を解いてしまった石黒氏が大風に苦しめられたため、瑞泉寺を開いた綽如(しゃくにょ)上人が経典を納めて再び風を封じ込めたという言い伝えもある。このように「風穴」は、昔から八乙女山の風を司る神聖な場所として、地元の人々から厚く信仰されてきたのだ。また、この山頂近くには「鶏塚(にわとりづか)」と呼ばれる二つの小さな塚があり、正月の元旦には鶏の鳴き声が響き渡るという不思議な伝説も伝わっている。これらの伝承が地元に伝わっていることからも、この砦跡が単なる戦の遺構というだけではなく、地域の人々の信仰や生活に深く根ざした場所であったことが伺える。今では風穴の近くには小さな風神堂が建ち、春と秋には「井波風(いなみかぜ)」と呼ばれる強い風を鎮めるための「風神祭」が催される。砦が役目を終えた現在も、地元の人々が昔と変わらずに八乙女山に祈りを捧げる姿には、この土地の文化と歴史が息づいている。このように、八乙女山砦は単なる戦国期の砦跡にとどまらず、地元の歴史や信仰、そして暮らしと深く結びついた貴重な史跡だ。そこには激しい戦乱を経てきた歴史の重みだけでなく、現代へと連綿と続く人々の願いや祈りが込められている。深い杉林に覆われ静寂に包まれた八乙女山砦跡に立てば、数百年前の戦乱の記憶や、人々が抱いてきた自然への畏敬を肌で感じることができるだろう。時を超えて、この場所に秘められた数々の物語を知ることで、改めて土地に刻まれた歴史の奥深さに触れられる、そんな魅力あふれる史跡なのだ。