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石川県金沢市の東部、二俣町の山里にひっそりと佇む史跡立石(たていし)。一見ただの自然石にも見えるこの石碑は、高さ約65cm、幅約42cmほどの小さな供養碑だ。この立石には地域の歴史に深く刻まれた悲劇、立石一向一揆の記憶が込められている。立石供養碑は文政6年(1823年)、江戸時代後期に建立された。建立目的は、戦国時代にこの地で起きた一向一揆で命を落とした人々の霊を弔うためだ。碑文は風化が進み詳細が判読できないが、おそらくは本泉寺の僧侶や地元門徒が中心となって供養の念仏を込めて建てたものとされる。この地と一向一揆のつながりは深い。戦国期、加賀一向一揆が1488年(長享2年)に守護大名・富樫政親を倒してから約100年の間、加賀は浄土真宗本願寺派の門徒が自治支配する「百姓の持ちたる国」だった。その拠点のひとつが、この二俣町にある本泉寺(ほんせんじ)だ。本泉寺は室町中期の嘉吉2年(1442年)、蓮如上人の叔父・如乗上人が開基した寺院で、蓮如自身もこの寺に滞在して名園「九山八海の庭」を造営したと伝えられる。一向一揆時代、二俣本泉寺は加賀の重要寺院として、能美郡の松岡寺、江沼郡の光教寺と並ぶ中心拠点だった。立石一向一揆の具体的な内容は詳しく伝わっていないが、この地域では古くから、何らかの戦闘によって多数の門徒が犠牲になったと伝えられている。その犠牲者の霊を供養し、慰めるために建てられたのが、この立石供養碑なのだ。藩政期には加賀藩が一向一揆に触れることを避けたため、正式な記録は乏しく、地域の口伝えでその記憶が密かに継承された。そして文政期に至り、ようやく地域の人々の手によってこの碑が建てられた。本泉寺との関係は深く、本泉寺の現在の山門はこの立石供養碑と同じ文政6年に建立されたもので、地域の復興と鎮魂を象徴している。山門は金沢市指定有形文化財にもなっており、二俣地域の歴史を今に伝える貴重な遺産だ。また境内の九山八海の庭は蓮如上人が設計したとされる名勝で、今なお訪れる人を癒している。また二俣から金沢方面へと続く三ノ坂往来は、一向一揆の時代から越中(富山県)への重要な連絡道で、参勤交代のルートとしても使われていた。その道沿いには夕日寺町の古刹夕日寺跡など、加賀一向一揆時代の遺構も多く残り、歴史のロマンを感じられるスポットでもある。このような史跡が現在も守られ続ける背景には、地域住民の信仰心や郷土愛がある。地域の人々にとって立石供養碑は単なる石ではなく、自らのルーツと信仰を象徴する大切な存在だ。江戸時代の建立以来、毎年お盆や彼岸には地域の門徒が訪れ、静かに手を合わせてきたという。そのように地域に根ざした文化や信仰を今も感じ取ることができる史跡である。また石川県内では立石など奇石が信仰対象として地域の伝承になる例が多いが、ここ二俣の立石も地域住民が語り継ぐ伝承と信仰の対象として文化的に重要な意味を持つ。加賀藩の歴史が語られる際には前田家や金沢城が注目されがちだが、一方で、このように静かに佇む石碑もまた貴重な歴史遺産として注目すべき存在と言える。文化財保護の観点からも、この立石供養碑は金沢市指定有形文化財に指定されている。行政だけでなく地域住民が清掃や手入れを行うなど、地域ぐるみで守られているのも特徴だ。小さな碑ではあるが、後世の子どもたちが郷土の歴史を知り学ぶ上で重要な教材としても機能している。訪れる人にとって、この立石供養碑はただの古い石にしか見えないかもしれない。しかしその石には戦国時代の門徒たちの悲劇的な物語と、それを鎮魂し後世に伝えようとした地域の人々の祈りが静かに宿っている。ぜひ金沢を訪れた際には、少し足を延ばしてこの二俣町の立石供養碑や本泉寺に立ち寄り、地域が秘めた深い歴史物語を感じ取ってみてほしい。