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撫育所跡(ぶいくしょあと)は、石川県金沢市末広町にある史跡で、幕末期の加賀藩が運営した貧困者救済施設「撫育所」があった場所です。撫育所という名前は「撫で育てる」という意味で、まさに藩が領民を慈しみながら支えた証しといえるでしょう。この撫育所が生まれたのは、加賀藩が抱えた厳しい社会状況が背景にあります。幕末の時代、飢饉や社会不安が相次ぎ、特に天保の飢饉(1830年代)では、藩内に多くの困窮者があふれました。これに対応するため、加賀藩は従来の臨時的救済から一歩進み、継続的に困窮者を支援する施設を構えました。慶応3年(1867年)、14代藩主・前田慶寧(よしやす)公は卯辰山の麓を開拓し、藩営の医療施設である「養生所」と共に、救貧施設として「撫育所」を設立しました。この撫育所は当時としては画期的な施設で、単なる施しではなく、入所者に作業を与え、自活能力を養うことを目指していました。施設内には家族向け、男性用、女性用の宿舎が別々に用意され、風呂場も設けられるなど、衛生や生活環境にも細やかな配慮がなされました。撫育所の収容対象は、貧困や病気で苦しむ人々、孤児、高齢者など幅広く、最大で約3000人もの人々がこの施設に身を寄せていたと言われています。施設内では草履や足袋、布製品の製造や、茶葉摘み、薬草栽培などが行われ、作った製品は藩が買い取り、それを積み立てて退所時に資金として支給する「除銭制度」も設けられていました。また隣接する養生所と密接に連携しており、医療が必要な人々は養生所で治療を受け、回復すると撫育所の作業に参加するといった仕組みでした。これはまさに現代でいう福祉施設と病院の連携の原型のような制度でした。撫育所の運営には藩主だけでなく、地域の有力町人や商人も積極的に参加しました。当時の町奉行や医師、世話役として活動した町人らが加賀藩の先進的な福祉事業を支えていたのです。明治4年(1871年)の廃藩置県で撫育所は廃止されましたが、その精神は受け継がれました。特に小野太三郎(おの たさぶろう)は、廃止後に路頭に迷った人々を自宅で世話し始め、明治12年(1879年)には私財を投じて施設を整備、最終的には金沢市卯辰山常磐町に「小野慈善院」(現在の社会福祉法人陽風園)を設立しました。彼の慈善活動は、日本で初めて福祉活動に対して藍綬褒章が授与されるほど評価され、加賀藩が築いた福祉の精神を見事に引き継ぎました。現在、撫育所跡そのものの建物は残っていませんが、撫育所で亡くなった人々を弔う慰霊碑が卯辰町共同墓地にあります。この碑には、1,562人の霊位を供養する旨が記されており、施設が背負った困窮と苦難を今に伝えています。また撫育所跡周辺の卯辰山公園には、かつて撫育所や養生所へ向かうために整備された「帰厚坂(きこうざか)」という坂が残り、その名前は藩の慈愛が厚情として市民に返ってくることを願って名付けられました。撫育所跡のある卯辰山周辺を歩くと、かつてこの地が福祉、医療、教育、産業が融合した、幕末加賀藩が理想とした地域社会だったことが感じ取れます。帰厚坂の緑豊かな散策道を歩きながら、昔ここで懸命に生きた人々や、彼らを支えようと努力した人々の姿に思いを馳せることができます。撫育所跡は、単なる史跡というだけでなく、金沢が長い年月をかけて育んできた、藩と市民がともに支え合う「共助の精神」を深く感じられる場所です。金沢を訪れた際には、ぜひ足を運び、先人たちが育んだ温かな福祉の歴史に触れてみてはいかがでしょうか。