金沢市牧町の静寂な墓所、富樫晴貞の安らぎ。
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| 名前 |
富樫晴貞墓地 |
|---|---|
| ジャンル |
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| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
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ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
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富樫晴貞墓地(とがしはるさだぼち)は、金沢市牧町の静かな山間にひっそりと佇む墓所だ。ここに眠る富樫晴貞(とがしはるさだ)は戦国時代、加賀国を統治した守護大名で、加賀の名門・富樫氏最後の当主として知られている。もともと富樫氏は室町時代から加賀の守護職を務めていた名家だ。しかし戦国期に入り、一向宗(浄土真宗)の門徒が中心となった加賀一向一揆が発生すると、守護大名だった富樫政親(まさちか)が討ち取られ、加賀は「百姓の持ちたる国」、つまり庶民たちが自治を行うという異例の状況になった。その後、富樫氏は守護としての名目こそ残したが実権は奪われ、形式的存在となってしまう。そんな中で家督を継いだ晴貞は、幕府や織田信長とも連携し、一向一揆勢に立ち向かおうと試みる。彼が加賀の南部に築いた野々市城を拠点に、一度は反攻を試みたが、織田信長からの支援が十分でなかったこともあり、圧倒的な一揆勢力の前に城は落とされてしまった。その後、晴貞は金沢市内の大乗寺や伝燈寺(でんとうじ)へ逃れたが、一向一揆勢に激しく追撃され、ついに伝燈寺で自害に追い込まれてしまった。元亀元年(1570年)、富樫氏が実質的に滅亡した瞬間だった。この悲劇的な最期により、加賀守護の歴史に幕が下ろされたのだ。この墓は、その最期の地となった伝燈寺にほど近い三ノ坂往来(さんのさかおうらい)という古道沿いにある。墓自体は五輪塔形式の素朴な石塔だが、かつての激しい歴史が凝縮されたような趣が感じられる。近くには伝燈寺の跡地があり、その周囲には城跡(伝燈寺城跡)も残っている。この城跡は後の前田利家と佐々成政が戦った際の砦としても使われていたらしく、晴貞が追い詰められた場所として臨場感がある。また、晴貞は武人としてだけでなく、文化人としても一流だった。特に絵画に優れ、馬の絵を好んで描いたとされる。彼の作品の一部は、彼が逃げ込んだ大乗寺に伝わっており、その芸術的な才能は今でも評価されている。墓そのものは観光地的な華やかさはなく、むしろ静寂に包まれ、落ち着いた雰囲気だ。だからこそ、ここを訪れると、単なる石塔以上に富樫晴貞という人物の波乱に満ちた人生や、加賀という地が歩んできた激動の歴史をリアルに感じることができる。伝燈寺や野々市城跡、大乗寺などと合わせて巡れば、さらに加賀の戦国史を深く知ることができるだろう。加賀最後の守護・富樫晴貞の墓は、小さいながらも強く印象に残る史跡だと思う。歴史の影に生きた人物たちのドラマに思いを馳せるにはぴったりの場所だ。