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扁額には長源寺子安地蔵尊と書かれているが、由緒書には延命地蔵尊とされている。由緒この延命地蔵尊(お地蔵様)は天正元年(1573年・安土桃山時代)浄土宗、山王山、医王院、長源寺を開山した妙連社光誉愚低上人の超玄和尚の代より、本堂わきに別なお堂として地蔵堂を建て延命地蔵尊をお祀りしました。このお地蔵様は「安産の神様」として大変尊敬され、ご婦人達の信仰も厚く、代々の住職によって管理されてきましたが、天保14年10月(1843年・水戸藩偕楽園が造園される)領内の小さな寺院はお取り壊しとなり、長源寺も同じ様にやむを得ず取り壊しとなりました。その時に檀家の精霊帳簿など全てを隣村で同じ宗派だった、栃木県芳賀郡中川村大字山内にある万福寺にお願いし、その後の葬儀供養などについては万福寺の住職によって執り行われて来ました。その時地蔵堂も寺院のお取り壊しと共に潰され、これに対して信徒一同、皆んなでこれを嘆き悲しみました。その様な中で、密かにお地蔵様を隣村の万福寺へお運びし、お祀りしたのであります。伝説によれば、その後、元治元年(1864年・幕府が神戸海軍操練所設立・勝海舟が頭取となる)万福寺34世の住職だった孝現和尚の代になって、不思議な事に毎晩の様に深夜になると幽かにお地蔵様が「お経」を唱えているような声を耳にして、これは何かの兆候ではないかと、大いに不審を抱き、孝現住職から、元の檀家や信徒にたいしてお地蔵様を引き取ってほしいとの申し出があったために、当時の信徒たちがお地蔵様引き取って現在の地に小さな仮の小屋を作りそこに安置しました。その結果、近くはもとより遠方からも、お地蔵様に対する信仰はますます厚く、お参りに来られる人は絶えませんでした。そこで信徒たちは再び相談をし、明治19年3月(1886年)地蔵堂を建立しここに安置することにしました。木造平屋、間口2間、奥行き2間3方背蓋濵えん付茅葺屋根の立派な御堂でした。さかし修理を重ねながら100年あまりが過ぎ傷みがひどくなり、昭和63年(1988年)木造平屋、間口2間、奥行き2間、4方背蓋濡縁付銅板葺の御堂が完成しました。平成になってからも御堂の改築、参道の整備、長源寺時代の墓石などの整備、釈迦涅槃図の修復等を行い現在に至っております。現在もなお昔の思いは受け継がれてこの地蔵堂では毎年8月23日には涅槃図を掛け子安地蔵の厨子を開帳し盛大にお祭りを行っています。特に安産祈願、子供の無病息災を願うご婦人の参詣は後を絶ちません。