静かに佇む古墳、記塚の魅力!
| 名前 |
記塚(伝 利波臣志留志古墳) |
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| ジャンル |
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| HP |
https://culture-archives.city.nanto.toyama.jp/culture/bunkazai/bunkazai0165/ |
| 評価 |
4.0 |
| 住所 |
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記塚(しるしづか、伝 利波臣志留志古墳(となみのおみ しるし こふん))は、富山県南砺市岩木に静かに佇む、古墳時代の遺構と伝えられる史跡だ。ここは奈良時代に越中国砺波地方を治め、東大寺の大仏建立のために莫大な量の米を献上したことで知られる利波臣志留志(となみのおみ しるし)の墓所とされている場所だ。志留志が生きたのは8世紀半ば、奈良時代中期の聖武天皇の頃。聖武天皇が全国から東大寺の大仏建立のための寄付を募った際、志留志は砺波平野の豊かな水田から実に米3,000石という莫大な寄付を行った。これは他の豪族たちを圧倒する量で、都でも大きく称賛された結果、一気に外従五位下という高位を授けられたほどだ。彼がそれほどの富を得られた背景には、奈良時代に実施された墾田永年私財法による土地開発があり、志留志自身も砺波郡伊加流伎野(いかるぎの)に広大な私有地を所有していたという史実がある。さらに志留志は神護景雲元年(767年)にも東大寺へ100町歩もの新田を寄進し、位階をさらに引き上げて従五位上となり、越中員外介という名誉ある職に就いた。そして晩年には伊賀国(現在の三重県)の国司にまで登り詰めている。地方豪族が中央政府の要職に任じられるのは珍しく、それほど彼の功績は中央においても高く評価されていた。志留志を祀る荊波(うばら)神社は、こうした彼の功績を称えて建立された由緒ある古社で、記塚はその荊波神社の奥宮裏手に位置する。塚は現在、樹木に囲まれ静かに残っているが、元々は古墳時代後期(5世紀末から6世紀頃)に築造された前方後円墳であったと考えられている。ただし、この時代と志留志が活躍した奈良時代(8世紀)とは若干の時代差があり、元々古墳として築かれた塚を後世に志留志の墓所として伝承した可能性が高いとされている。また近年では、この塚が平安時代以降に仏教経典を埋納した経塚ではないかという説も出ているなど、未だ考古学的に解明されていない謎を秘めている。この塚は大正8年(1919年)に宮内省により正式に「利波臣志留志の墓」と認定され、昭和34年(1959年)には地元自治体により「志留志の古墳と発掘物」として史跡に指定され、平成18年(2006年)に現在の「記塚と出土品」と改称されている。現地からは須恵器の破片などが出土し、それらは荊波神社に収蔵されている。また砺波地方には志留志に関連する他の史跡も存在する。安居寺古墳群にある利波臣古墳は彼の一族の墓地である可能性が高く、砺波市の散居村ミュージアムでは彼の業績が紹介され、地域の歴史教育にも活用されている。さらに『万葉集』には、当時越中国守として砺波を訪れた大伴家持が詠んだ歌が残り、荊波(やぶなみ)の地が歌枕となっていることから、志留志やその土地が古代より文化的に意義深い地であったことがうかがえる。中世には地元の領主石黒氏が自らを志留志の子孫と名乗るなど、志留志の名は時代を超えて砺波地方の象徴的存在として語り継がれてきた。現在も南砺市や砺波市では、地域の文化や歴史教育の中で志留志の業績を積極的に取り上げており、漫画や講演会など様々な形でその記憶が継承されている。記塚は、静かな森の中にひっそりと立つが、古代から続く地域の歴史、豪族たちの活躍、そして地元の人々の記憶を今に伝える重要な史跡だ。ここを訪れると、志留志という古代の豪族の偉業と、その人物を中心に紡がれた地域の歴史的なつながりに深く感じ入ることができるだろう。