天文の大石、崇拝の神社。
避来矢神社の特徴
天文年中に飛来した大きな石を崇拝する神社です。
避来矢神社は藤原秀郷公を御祭神として祀っています。
利根川堤防強化事業による境内地の収用が印象的です。
珍しい社名の神社だが、由緒によると天文年中(1532~1554)に下野栃木村から大きな「石」が飛来し、その石を崇拝し奉斎したのが創祀とされる。かつては「飛来石神社」と称した。『新編武蔵風土記稿』によると、享保11年(1726)、神祗伯・吉田家へ神位を申請したおり「避来矢神社」と改称。「避来矢」とは、平安時代中期の武将藤原秀郷が百足退治の礼として龍宮の王からもらったという伝説のある大鎧の名称である。この場合、避来矢は「平石」とも言う。
この先に利根川があります。
| 名前 |
避来矢神社 |
|---|---|
| ジャンル |
/ |
| HP | |
| 評価 |
3.3 |
| 住所 |
|
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避来矢神社(ひらいしじんじゃ)御祭神 藤原秀郷公 日本武尊避来矢神社は、国土交通省の利根川堤防強化事業により、境内地のほぼすべてが収用されました。神社移転建築は、神社総代、自治会長を筆頭に建設委員会を設立し、この一大事業を遂行しました。着工 平成二十七年(2015)一月二十五日竣功 平成二十七年(2015)七月八日(「避来矢神社移転建築記念之碑参照」)由緒上村君村の鎮守なり、相伝当社は俵藤太秀郷を祭る所にして、古へ相州朽木村より飛来りし故、もとは飛来と書しを、享保十年神祇伯吉田家へ神位を請し時、今の文字に改め記し来りし云(「新編武蔵風土記稿」参照)天文年間(1532~1554)に、下野栃木村から大きな「石」が飛来し、その石を崇拝したことに始まるとされています。そのため、当時は、飛来石神社と称していました。それが、藤原秀郷公が百足退治の礼として龍宮の王から授かったと言われる伝説の大鎧である、避来矢(ひらいし)と結びつき、現在の社名並びに形となっています。伝説の大鎧「避来矢」とは藤原秀郷の子孫である足利忠綱が以仁王の挙兵の時、宇治川で敵と対峙しました。避来矢は非常に重いため、忠綱は軽い鎧に着替えて戦いました。勝利して川べりを見ると、置いていたはずの避来矢がなくなっていて、平らな石が置かれていただけでした。家宝をなくしたと思った忠綱は嘆きのあまりその平らな石を殴りつけました。するとその石は消えてもとの避来矢が現れたといいます。それから避来矢は平石とも呼ばれるようになりました。(Wik参照)羽生市指定無形民俗文化財「獅子舞(上村君地区)」前獅子、中獅子、後獅子の三頭で構成され、現在七月の祭に避来矢神社から雷電神社まで、天下泰平、村内安全、五穀豊穣の幟を先頭にして往復します。元亀(1570~1573)・天正(1573~1592)の頃、羽生城の救援に出陣した上杉謙信が将兵の士気を高めるため、上野国からささら舞師を招き、避来矢神社に奉納したのが起こりという伝承があります。(「境内案内板」参照)