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富山霊園の大転石は、1858年の飛越地震で発生した土石流によって運ばれたと伝わる巨大な転石で、その上には万延元年建立の供養塔が立ち、安政の洪水犠牲者を弔う。富山市西番の富山霊園に隣接する西番共同墓地の一角に、ひときわ目を引く大きな石がある。高さ約4.5メートル、長さ6メートル、周囲は20メートルにもおよび、推定重量は約187トンに達する。地元では「大転石(だいてんせき)」あるいは「西番の大転石」と呼ばれるこの巨石は、安政5年(1858)の飛越地震で常願寺川上流の鳶山が大崩壊を起こし、発生した土石流が流域に多数の巨石を残した中の一つとされる。石の上には、犠牲者を慰霊するために万延元年(1860)に建立された石塔が建っており、現在も良好に保存されている。飛越地震は安政5年4月9日(新暦1858年4月25日)に発生し、マグニチュード7.1と推定される。震源は岐阜・富山県境の跡津川断層付近で、立山連峰の鳶山・小鳶山が大崩壊し、土砂が常願寺川支流の真川・湯川を塞き止めた。この天然ダムによって大量の水が堰き止められた末、同年中に少なくとも一度以上決壊し、下流の富山平野は甚大な洪水に見舞われた。資料によって日付は4月23日や4月26日、6月7日など複数の決壊があったとされるが、いずれにせよこれらの洪水によって常願寺川扇状地には巨大な転石が40個以上も分布するようになった。西番共同墓地の大転石もその一つである。この大転石の上には、高さ約88センチの小型の石塔が築かれており、正面には密教系の仏教信仰を示す刻文が確認できる。向かって右側に「光明真言 六百万遍」、左側に「弥陀宝号 六百万遍」とあり、背面には「為横死諸聖霊等無上佛果也」と記されている。これは、同年の水害で流されてこの地に辿り着いた遺体を見て、西番の住民たちがその霊を慰めるために供養塔を建てたとする伝承と対応しており、自然災害による犠牲者を追悼する歴史的記念物として、地域に語り継がれてきた。なお、この供養塔は富山市や富山県の指定文化財ではないものの、歴史的価値は高く、内閣府による災害教訓の継承調査報告にも詳細が記録されている。また、よく混同されがちだが、同じ西番地区の「安政の流石」や、近隣の「大場の大転石」は、国土地理院が登録する「自然災害伝承碑」に指定されている別個の事例であり、本件の大転石とは区別されるべきである。富山霊園周辺には、ほかにも飛越地震に関連する石が点在している。たとえば、西番の正源寺の山門脇には、明治41年(1908)に町民の手で奉納されたという直径約3メートルの転石が置かれており、やはり飛越地震で流されてきたものと伝えられる。同寺の本堂天井には「鳴き龍」と呼ばれる市指定文化財の墨絵も残り、地域の水難除け祈願と密接に結びついている。また、常願寺川の対岸には、西大森地区の大転石の上に祠が建てられた事例もある。この場所では、濁流が大石にぶつかって流れの向きを変えたことで、周囲の被害が軽減されたと伝えられており、水神としての信仰対象にもなっている。殿様林や佐々堤といった治水に関連する旧跡も近接しており、飛越地震による大規模災害とそれに伴う信仰・追悼・治水の三層構造が、富山市南部の地域史に深く根ざしていることがわかる。このように「西番の大転石」は、単なる自然の巨大岩ではなく、江戸末期の激甚災害と、それに対応しようとした当時の人びとの営みの痕跡として極めて貴重な存在である。その存在は、過去の災害の記憶を今に伝える「静かな証人」として、地元住民のみならず広く関心を寄せるに値するものであろう。