富士塚で感じる神秘の瞬間。
| 名前 |
富士塚 |
|---|---|
| ジャンル |
|
| 評価 |
3.0 |
| 住所 |
〒369-0305 埼玉県児玉郡上里町神保原町369 0305 |
|
ストリートビューの情報は現状と異なる場合があります。
|
周辺のオススメ
富士塚(石神社境内社・富士浅間神社の富士塚)富士塚には、富士浅間神社本宮の祠が中央、頂上に、左右の峰には、富士山千眼、小御岳大神の石碑が立っています。富士塚手前に建つ富士浅間神社拝殿の前後の御扉を開け放つと、拝殿前より背後にそびえる富士浅間神社本宮を拝謁することが出来ます。富士塚西方の山麓にも別の石碑があり、(明治20年11月銘、維玄英日蘭山髙橋静謹書)天照大御神を中央にして、左右に、神倭伊波禮日子命(ジンム)、日子番能邇々藝命(ニニギ)と銘記されています。明治40年8月に、字・東台(上里町指定文化財・浅間山古墳)に祀られていた社を、石神社・境内社として移転し、背後には富士塚が築かれた。富士浅間神社の遷座と富士塚の築造が、明治40年8月とありますが、そうであれば、富士塚にある記念碑には明治20年11月銘とあるので、これも既に何処か(元宮の浅間山古墳の地)にあったものを移設してきたと考えられます。石碑の向かって右半分には、前説の通り、天照大御神を中心に、皇神3神が記載されていますが、向かって左半分には、221文字の漢字のみの日本文が刻まれていて、明治20年11月銘、維玄英日蘭山髙橋静謹書と記されています。また、背面に於いては、三連峰の山の峰のラインの絵とその下に、「三」と記されたマークの様な印を上部に、幹事名が10名、世話人名が11名。発起補助名が4名。縦三段に縦書きで刻まれています。幹事1列目は阿佐美宣哲、世話人1列目は栁井喜太郎、発起補助1列目は須藤源蔵とあります。表面は221文字の漢字のみの日本文(変体漢文)です。富岳大先達須藤亘翁也者其宗家安五郎之仲子也性質直活溌常好潔齋夙信国教特崇敬富岳神登岳無歓年矣因而岳之官長感賞之授該職矣然而到干容裁登岳二十有七回随行者通計幾三千名也而翁茲年七十有六歳而其彊健不譲於壮者毎喜踏峻嶺嶮嚴之地衆竒之矣身羅干疾病災異為祈穣即其應験著明也是咸所神祇之冥助焉抑該社也者自往昔鎮富山之神也而翁奉祝多年植華樹据岩石大曽風致矣翁又賞欲於此鎮祭是三神以報於神徳也久也然而茲年議於衆衆即悦預給資力而助速成焉時明治二十年十一月某日終功維玄英日蘭山髙橋静謹書口語訳文:富岳大先達・須藤亘は、当主・安五郎の次男であった。彼は率直で活発な人でした。彼はいつも清潔で倹約的であることが好きだった。彼は常に国教を信じており、特に富岳神を崇拝していた。彼は年齢に関係なく山に登ったので、山の役人たちは彼を高く評価し、その地位を与えた。しかして、彼は合計27回もこの山に登っており、同行した人は3,000人近くいた。その老人は当年76歳になっていたが、若者と同じくらい元気だった。彼は険しい山や険しい地形を登るのが好きだった。誰もが彼に驚いていた。彼は病気や災害、異常事態が起こらない様幸運を祈ったが、その祈りは叶った。彼ら全員は神々に助けられました。当神社は古来より富岳山の守護神として信仰されてきました。老人は何年も祈り続け、岩の上に美しい木を植えました。老人は感謝の気持ちを抱き、長い間、神々への恩返しとして、ここで三人の神を祀り続けたいと考えました。しかして、今年、彼は地域の人々と話し合い、人々は喜んで彼に資金を提供し、彼がその仕事を早く完了出来るように手助けしました。明治20年11月某日、工事は完了した。維玄英日蘭山髙橋静謹書文面から察するに、この石碑を建てたところ(浅間山古墳上の富士浅間神社)では、古来より富士山の守護神を祀っていた。特に富士山信仰を崇拝していた、須藤亘氏(地理的に、浅間山古墳の近くに居住)は、富士山登山の崇拝者でもあり、度重なる登山の成功をここの神様に感謝していたが、晩年を迎え、その感謝の気持ちを形に記そうと考え、皇神三神を祀りたいと考えていたところ、地域の人々の資金援助と協力を得て、その形を明治20年11月某日に工事完了する事が出来、この石碑を建てた(浅間山古墳上の富士浅間神社に)のではないかと考えられ、明治40年8月、浅間山古墳上の富士浅間神社・元宮から石神社境内に富士浅間神社を移転した際に、同時に築造した富士塚の西山麓に場所を設け、この石碑も移設したのではないかと考えます。